まどどブログ

普通の男子大学生が、有名作家になるか、破滅するか。そんな人生ドキドキギャンブルの行く末を提供しています。

2021.12.31(残91日) 作品の魂について

2021.12.31

あと91日

 

 今年も終わる。きっと皆が皆、今年はどんな一年であっただろうか、とか、来年はどうしよう、とか、様々考えているはずである。それを思えば、をかし、と感じたりもするものである。

 をかし、は現代において、どのような意味を持つであろうか。趣深いであったり、情趣を感じさせるであったりと、基本的には「趣」という言葉で説明される。しかし、どうにも趣だけで説明できるものではないような気がする。無論、学術的にどのような意味を持つであるだとか、そういう議論は腐るほど為されているであろう。それを差し置いて、私の感覚で言えば、なんというか、普段ありふれているような事物に対して、ふと気に掛かって、新たな発見を得て、なぜ気づかなかったのであろうと不思議に思うと同時に、確かにそれを考えれば興味深いかもしれない、この一連のプロセスが、をかし、なのである。あはれなりについても、もちろんベクトルの違いはあれど、似たような過程こそが、あはれなり、である。

 あくまで私の感性である。ほんとうの意味は、きっととうの昔に失われてしまった。

 

  • 作品は光る

 光少将、照る中将。平安時代中期、美貌と名高く、前途有望でありながら、突如として出家し表舞台から姿を消した、この二人の人物。先日、羽生結弦のフリーを観たとき、ああきっとこのようなことを言うのであろう、私はそう強く思われた。

 俳優とは、時としてその人物への認識をも歪めてしまうらしい。高橋一生が何気なく話しているのを、「この人は漫画家だしな……」と思ってしまった私は、現に存在する。「あれ、この人は曲を作るんだっけ」などと、どこから聴いたのかすらわからない、恐らく本人とは何ら関係のない、そういう物語すら浮かんできてしまったのである。

 表現とは、そのように、我々の中に深く介入する。小説や漫画、絵、そして音楽など、一般的に「作品」と認められているものだけではない。人であろうとも、例えばフィギュアスケーターや俳優であろうとも、作品であるのであれば、その人々は、我々に深く啓示を与える。我々はそれらに突き動かされる。

 つまり、作品とはそのようなものでなければならない。そして、そのようなものであれば、塩のように、作品は広く求められる。

 

  • 魂は感情である

 では、この担い手が抱くべきものは、何か。作品に対して、何をもって対峙すべきか。以前は、作品が受け入れられる要因について述べた。今回は、その作品にそもそも注ぎ込むべきは何か。これが主眼である。

 わからない。私はひよっこだから。いや、才能というものが無いのかもしれない。それはわからない。知らない。

 ただ、一つ言うとすれば。それはきっと感情である。小説であろうとも、漫画であろうとも、絵であろうとも、作曲であろうとも、ピアノであろうとも。ドラマであろうとも、フリープログラムであろうとも、きっと皆、何かの感情を持っている。その感情が抑えられなくて、見せたくて、作品という形に表す。そのために、血の滲むほどの努力を、血の絶えるほどの苦節を、血の滾るほどの譏りを、耐え忍ぶ。それがより、感情を増長させる。そして、作品はより、感情を蓄積する。

 作品の根源は、恐らく何一つ変わらない。感情である。それをどのように表現するか、どのように表現するのが適切か、その選択によって、作品の表現方法が決定されているに過ぎない。

 上辺なものは売れない。売れたとして、浸透しない。浸透するような作品とは、我々の心をかき乱すような作品とは、きっと感情でドロドロに塗り潰されているものである。きっと、そうだ。

 魂に感情を持つ作品こそ、善いものであろう。私はそのように信じている。

 

●最後に

 これを、私の一年に捧げる供物としたい。この一年間の素晴らしい成長を、私は祀るのである。

 来年はきっと、受難の年になるだろう。労働の十字架を背負い、もう会うことすら叶わない恋に苛まれ、自身の才を呪い、怠惰と戦う。考えるまでもない。霧の中を、私は孤独に進むのだ。それが来年、令和四年という年である。いや、もしかしたら、私の生はそのように定義されているのかもしれない。

 しかし、私はそれでも死んではならない。心を殺してはならない。どんなに抑圧されようとも、どんなに陵辱されようとも、理性は、魂は、気高く在り続けなければならない。この世に、醜さに、支配されてはならない。私は、どこまでも清くなければならない。そう、淳素な子供のように。清く在る限り、私の魂は死なず、私の中に息を潜め、それでも遺り続ける。そして、やがて私の魂は、放たれる。

 それを成すか、肉の快楽に溺れるか。美しく死ぬか、醜く生きるか。それは私次第である。

 私はこの受難に、耐えられるのであろうか。何を思うか。何を思うこともない。ただ、淡々と受け入れる。それだけである。

 願わくば、美しく生き永らえんことを。

 

 それでは、良いお年を。