まどどブログ

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2022.01.03(残88日) 昨今の邦楽とボーカロイドについて

2022.01.03

あと88日

 

 鼻が痛い。鼻柱がどうやら裂けているようで、かむたびに静電気のような微弱な痛みを脳髄に伝える。唯一の治療法はかまないことであろうが、そうもいかない。つらい。冬は好きだが、こういうところは嫌いである。

 

 前提として、私は音楽、特に音楽理論には極めて疎い。的外れ甚だしい可能性もある。しかし、思いついたことを記しておかねば忘れてしまうのが、私である。今日のものは、仮説として留めておきたい。

 仮説は十分な積み重ねの上に提唱されるものである。であれば、妄言にしようか。

 

 私は昨今の邦楽について、特にここ五年のものについて、その殆どを好ましいと思っていない。あくまで個人的な好みであるが、私にはどれもこれも、陳腐で商業的に聴こえる。まず歌詞があまりに稚拙である。直情的という形容すら厳かに思われるほど、何の工夫もない。恐らく、コストカットの一環で、作詞は秀でた中学生にでも外注しているのであろう。であれば、歌詞については目を瞑ろう。

 曲そのものについても、まあ、姦しい。電子音楽を特に愛する私でも、邦楽の風潮には閉口する。確かに最近の潮流として甲高い音を採用する傾向にある。しかし、それにしても品が無い。念が無い。

 曲とは、自己の溶け込む余地があるからこそ、曲なのである。いまの邦楽はおしなべて酷い。何の情趣も何の憧憬も何の悲愴も何の怨嗟も何の狂気も無い。薄っぺらい。感情がまったくかき乱されない。もはや、そのように作っているのかもしれない。ただ「綺麗」に取り繕ってある。ここでの「綺麗」とは、冬の夕暮れのような、ハッとさせられる荘厳さではない。中学校において高く内申点を得るような人格のことを指す。タワー・マンションのような音楽に、誰が焦がれるほどの夢を見ようか。海神の怒りに曝され、三十年あまりで廃墟と化して終わる。越天楽や東遊のようには決して成り得ない。そんな建物が持て囃されるような時代なのだから、音楽もそのようになってしまうと考えれば腑に落ちる。

 ほんとうに下らない。無論、現代にも凍るほどの作品は数えるほどに存在する。が、それを駄作が覆い隠してしまっている。そんなことだから、隣国のアーティストたちに圧倒されてしまうのだ、我々は。今や、シティー・ポップという過去の産物によって食いつなぐゾンビである。

 あくまで個人的な好みであるということに留意されたい。それでも、私はこのような価値観である。

 

 では、なぜ陳腐になってしまったのか。それには、ボーカロイドの存在も一翼を担っているのではないか、と私は考える。

 ボーカロイド。思春期の私を支えたものである。歌手を用意せずとも楽曲を作成できるというのは効果的であったようで、今や廃れて久しいニコニコ動画というプラットフォームも相まって、この世には新たなアーティストと、新たな作風が登場することとなる。ナードの手慰みでしかなかった曲の数々は、やがて無視できない存在となり、やがてJ-POPにも大手を振って進出するようになった。その影響が、如実に邦楽に現れているのではないか。私はそう妄言する。

 ボーカロイドの特徴とは、その声である。人口音声によって、肉体の制限は撤廃される。息継ぎを無視し、声帯には届かない超高音域、超低音域を組み込む。柔軟な曲作りが可能となる。かたや、人口音声というのはどうしても機械的で、企業努力によって近づいたとはいえ、声帯の持つ深さや渋さというのは再現できない。どうしても強い声になってしまう。

 この二つを捉えていたのか、曲は強くなっていく。一つの音符は多くの言葉を持ち、音域は大きく揺れる、バックは激しく鳴る。そして、そんな多くの言葉を曲にすれば、歌詞は当然直情的になっていく。限られた文字で何かを表現するからこそ、俳句や和歌は成立するのであろう。その対極は、どのようになってしまうか。論ずるまでもない。

 さて、ボーカロイドが市井に受容されて仕舞えば、当然、そのようなものを取り入れる者も出るであろう。歌詞は多く。バックは大きく。展開は早く。人気のあったボーカロイドの様式を受け入れる。

 しかし、人間はボーカロイドたちと違って、声域は制限されるし、息継ぎも必要となる。つまり、劣化である。ボーカロイドを人間が真似すれば、当然、劣る。それが、昨今の邦楽ではないか。

 無論、ボーカロイド音楽というのは騒がしい曲ばかりでないし、最近の消費者——特に若者——が感情をかき乱されないことを好む、ということも背景にはあるのだろう。しかし、歌詞の稚拙さと曲の姦しさに限って言えば、ボーカロイドを拝借した結果、劣化が生じているのではないか、と思われるのである。

 人間にあれは実現し得ない。ボーカロイドに歌ってもらった方が、耳も安心できるのではなかろうか。

 

  • 補足:タワー・マンション

 タワー・マンションについては一切理解できない。何をどう考えればあれに住もうと思うのであろうか。生活コストは著しく跳ね上がるであろうし、海風によって朽ちるのは早いし、そもそも人の住むべき場所にないので害虫は跋扈しているし、建て替えについてもスムーズに進むわけがない。中流層が住まうのは論外として——中流層は大人しく郊外の中層マンションに居を構えるのが幸せである——、富裕層も例えば松濤や田園調布など、一定の評価を得ている高級住宅街に住まうのが合理的である。タワー・マンションの利点など、夜景と、それによる優越感しかない。それだけのために、すべてを犠牲にするのは、非合理的と言わざるを得ない。

 と、思うのだが、それは私が鄙びているからであろうか。