まどどブログ

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2022.01.06(残85日) 冗長な人間について・睡眠不足とニコチンについて

2022.01.06

あと85日

 

 ここ二日間泥のような生活を送っていて、やっと女々しさが私の中から抜け出ていったようだ。過集中なのか体力がないのかは知らないが、こう二日も動けない日々が続くのは何かと不都合である。労働に突入したら、休日をこれで潰してしまうではないか。

 そうか、労働に心血を注がなければよいのか。

 

  • 話の長ったらしい人間が嫌いな三つの理由

 私は話の長ったらしい人間が嫌いである。それの必然性は別として、感情の平面で、疎ましく思われる。何故か。三つ考えられる。

 一つ、物事は簡潔に説明されるべきだと考えているから。なぜそのように考えるのか、今はニコチンが身体を行き交っていて、雲間にでも居るかのような気分なので、それを仔細に述べられる状況にない。しかし、とにかく私は確固たる信念を持って、そのように考えている。物事はすべて簡潔に説明されるべきである。その対極は信念への反乱である。

 一つ。短気だから。私は短気である。長ったらしい話には耐えられない。無論、人間として破綻しているわけではないので、相互に交流する会話であれば、いくら冗長でも、それに私も介在しているという点で、特段気になるわけでもない。しかし、一方的に話されてしまっては、途中で「結局、何?」という衝動に駆られてしまって仕方がない。ひたすら耐え忍ぶ時間の始まりである。それは面白くない。

 一つ。そういう人間というのは、往々にして女々しいから。例えば主題を明示しない。結論を先延ばしにする。敢えて(不必要に)理解を遠ざける。なぜ、そのような行為に至るのであろう。それは、話を聞いてほしいから、ではないだろうか。自分の言葉を追ってもらう。自分の論理に注意してもらう。自分の真意を考察してもらう。つまり、話を聞いてほしいのだ。かまってほしいのだ。自分に注目してほしいのだ。それは女々しさに他ならない。女々しい人間は憎い。私と同じだから。

 無論、当人にとって必要な表現の場合もある。しかし、代替できる表現がある場合は、とりわけ私の凡才ですら思いつくような代替手段のある場合は、それを適用できない。単に構ってほしいだけである。

 

  • 補記:ニコチンの作用

 睡眠不足とニコチンとはこのような相乗効果をもたらすのか。ふわふわ、という擬態語がよく当てはまる。何も考えられないのだ。考えよう、という意識は私の心の中に確実に存在している。しかし、それが結びつかない。なんというか、二つの概念が、それぞれ形を持って分離しているような状態なのだ。

 例えば。バス、と、渋滞、という概念があったとして、普段であれば、バスが渋滞でひどく遅れているらしい、というように自然な接続が見られるものであるのに、今日のような日だと、それらがちゃんとくっついてくれない。その結果、渋滞しているらしい、バスが、などと、支離滅裂な発言をしてしまうのだ。

 また、明らかに重力が無い。普段であれば、多少なりとも足の裏には重さというものを感じる。しかし、今日はそれがない。接地しているという感触が乏しい。身体はすべて心に収束していて、外界との隔たりはそのたかだか半径三十センチのそれに留まっているような気さえする。いや、それも過剰かもしれない。外界との境目すら無いように思えるのだ。

 これがニコチンの作用というものか。なるほど、現実逃避にはもってこいの軽さかもしれない。ぼんやりとした恍惚。雲に溶け出す御霊。少なくとも、二度と味わいたくはない感覚である。