まどどブログ

普通の男子大学生が、有名作家になるか、破滅するか。そんな人生ドキドキギャンブルの行く末を提供しています。

2022.01.08(残83日) 恋の嗜好性について

2022.01.08

あと83日

 

 昨日の私がまた支離滅裂なことを言っている。疲れていたらしい。また後日、簡潔に直そうと思う。

 ところで、皆様は神仏を信じるであろうか。私は一定以上、信じている。特定の人格を持つとは思えないけれど、何らかの非科学的なものは存在していて、それが我々の念であったり生物の情動であったりする。そんなふうに考える。八百万の神、というものが私の認識と最も近しい。それ故、唯一神とはどうにも馴染みが薄い。

 とにかく、私は神仏を信じるし、加護や祟りというものも自ずと発生するんだろうと感じている。昨晩とて、同様である。私はご加護に遭遇した。

 昨日、長年放置していたお守りたちを返納した。小学生の頃から安置していたので、古いもので十年程度になろうか。あまりに不敬であるというので、とりあえず手づからお返しできるものを携えて、あらゆる寺社へお参りした。返納を怠った謝罪と、守護への御礼と、今後への祈願と。いやそんなふうには思っていないけれど、とにかく、すべて返しに行ったのだ。

 帰宅して、疲れを癒やして、夜になって。私は突如として、革新的な考えに至った。文字通り、天啓である。前兆など何一つ存在しなかったのに、ほんの一瞬、気を抜いた途端に、それは脳内にしっかりと植え付けられていた。

 よくこういうものの比喩として、稲妻が走るだとか、天から貫かれたとか、そういうものが用いられる。それは私にとって親しみのあるものではない。ほんとうの天啓とは、私の意識に上らぬまま、いつの間にか意志としてそこにある。音楽に耳を傾けていて、その楽曲が終わった頃には、もう存在していた。たぶん、神仏がその音色の一つ一つに植え付けていたのであろう。それを私は拒むこと無く、そもそも意識することもなく、単に音楽を楽しむように、受け入れた。息をするようである。それが私にとっての天啓であった。

 その天啓とは何か。恋とは、嗜好品である、ということ。

 

  • 恋の嗜好性

 嗜好品と言えば、何であろう。大きくは、酒と煙草であろう。有れば良い。有れば楽しい。有れば華やぐ。有れば安らぐ。しかし、無くとも死なない。そういうものが嗜好品である。依存性も高い。しかし、無くとも死なない。それが嗜好品。子供の頃には、それらが無くとも何の支障もなく、穏やかで健やかな日々が待っていた。それが嗜好品。

 恋とて、同じである。想い寄せる誰が隣に有れば、きっと人生は豊かになる。きっと人生は力になる。きっと人生は晴れる。しかし、無くとも死なない。他者と溶け合うやもしれぬ。しかし、無くとも死なない。嗜好品である。

 生殖という側面から見れば、嗜好品の域を離れる。種を殖やすことは嗜好ではなく、本能である。それはつまり、種から離れれば嗜好品である。

 

  • 嗜好品はオプション

 無論、嗜好品への眼差しは人によって様々である。性格にも依る。水や肉などと同様の反応を示すかもしれない。

 私はどうか。以前も述べたように、生殖には一切興味がない。それに、私はもとより、何かに依存する傾向が極めて薄い。自分だけでも満足な生活を送っていられる。コロナ禍でそれは確信へと至った。つまり、嗜好品への渇望は乏しい。恋も同様。

 では、なぜ私は、嗜好品へ手を出すのか。それは二つ。一つは同調圧力。他者もそうしているから、私も欲する。もう一つは憧れ。より豊かな人生。より幸せな人生。より美しい人生。そういうものに憧れる。そうして生きている他人にも憧れる。そして、そういう自分にも。

 しかし、考えてみれば、子供の頃はそういうものも必要ない部類であった。ジンジャーエールが大好物であったし、煙草なんて臭いだけであったし、恋なんて見向きもしない。それでも毎日が楽しかった。つまり、本来は無くとも良いはずなのだ。何かに頼る必要もないんだから、なおさら。

 少なくとも私にとって、嗜好品とは人生のオプションである。基幹システムではない。

 

  • 天啓

 そう思うと、恋に悩まされるのもアホらしくなってしまった。一日中苦しむなんて、あまりに非生産的ではないか。いや、少しでも項垂れるのがそもそも無駄である。その時間で音楽でも聴いたほうがまだ潤う。ヘッドフォーンの威力を思い知った折でもあった。

 愛を否定しなければならない。そんな極論ではない。愛は消えない。消せもしない。付き合い方が肝要なのだ。嗜好品である。無くとも死なない。死ぬ必要すらない。悩む必要性などどこにもない。気楽に構えていれば良い。逢坂山の縁が有れば良いし、無くとも、それはそれで受け入れる。そのほうが男らしいし、何より、合理的である。恐らく強がりではない。

 天啓である。これが私の天啓。恋患いに対する、神仏の教え。

 

 いや、でもこんなこと思っていたらもはや表現者としては終わりな気がする。合理と表現は極めて相性が悪い。大丈夫かしら。それとも、やはり向いていないのか。まあわからないな。

 

  • 補足

 そう結論付けた矢先、彼の夢を見た。友人に毛が生えたくらいの関係性であったが、それでも、幸せであった。私の求めているのは何も肉体関係ではないし、「恋人らしさ」でもない。あくまで相互の愛なのだ。友人に限りなく近かろうとも構わない。

 夢もまた神仏のお導きであることは周知の事実である。どれほど私を掻き回せば気が済むのか。いや、もしかしてこれこそが、私の真に求めているものだと、またお伝えになったのか。

 いずれにせよ、勘弁願いたいものである。犬猫を翫ぶのとは違うのだ。天神様が関わっていないことを祈る。

 

2022.01.09追記

 私は以前、「非科学的な現象は観測されていない、故に魂など存在していない」という内容の記事を書いた。それと神仏とは何が違うのか。矛盾しているではないか。そんな批判を思いついた。

 矛盾しているものではない。私は故人の存在を否定する。上記の文脈における「非科学的な現象」とは、「人間性を持った」現象について述べている。例えば故人が存在するのであれば、会話や食事など人格を伴った現象が発生して然るべきである。しかし現にそうはなっていない。故に私は魂を否定する。

 それとは別の議論で、生物の情動や念が科学とは離れた作用を産み出している可能性があると、私は感じているに過ぎない。

 

 なお、上記の指摘とは別に、私は基本的に一昨日より前のことを覚えられていない。故に、矛盾が散見されることもあるであろう。そのときは、基本的に最新の意見が私の意見だと考えてほしい。覚えていないのだから。