2022.01.10
あと81日
明らかに元気がない。元気が失われている。女々しく考える間もない。単にしんどい。1Gを感じる。なんでだろう。疲れているのか。
なんでやねん。
今日は表現に関する私の標語について、記録しておきたい。神仏は私に多くの加護をもたらしているらしい。やはり世界は神仏である。
- 読みたいものと得意なものは違う
私は綺麗で繊細な物語を好む。例えば『ハーモニー』であったり、『PSYCHO-PASS』であったり、『鋼の錬金術師』であったり。このように、複雑に入り組んでいて、豪傑で、透いている、宇宙のような物語を愛している。とりわけ、社会が存在する作品は興味深い。色々と考察が捗る。最近では『日本三國』という漫画に注目している。
私にはこういうものを創る才がない。頭が弱い。難解なものを創出するのがほんとうに向いていない。途中で何が何だかよくわからなくなって、崩壊してしまう。社会を持つには脳の処理能力が乏しいのだ。ほんとうに読みたいものはこういうものであるのに、私にはこれを生み出せないらしい。
一方で、私はどうにも、合理と憎悪を増幅させたようなものを得意とするらしい。いや、正確には、凡庸な私の、他者に比して秀でているのがその方向なのだ。合理と憎悪を煮詰めて、私は此処に立っている。
では、どうすべきか。上記を考えれば、水晶の物語は外注し、得意な分野に取り組めば良い。そのほうが成功する確率を高めるという点で合理的である。
そもそも私は何故物語を記すのか。何も読みたいからではなかろう。書きたいから書くのである。書くことによって、爪痕を遺す。私が消えないように、私は書いているのだ。それを忘れてはならない。
無論、これは呪いの言葉などではない。書きたくなったら書けば良い。あくまで、合理的な判断としてこのようなことが考えられる、という記述である。
- 小説は文章で、絵はイメージで
私は小説を記すとき、イメージで考える。先に景色や光、匂い、音、風など、五感があって、それを変換する。そういう工程を経て、作品は完成する。そして決まって駄作になる。
何故か。私は考えた。一つの結論を得た。イメージで考えるが故に、欠落が生じているのだ。そもそも小説とは文章の集合体である。表現は文字によって為される。決して絵の具ではないし、ライトでもないし、香水でもない。その変換過程で失われるもの、忘れてしまうもの、それらが発生する。
であれば、文字の続きは文字で記したほうが良い。イメージの先行は危険である。論理や感情の超越を防ぐ観点でも、それが望ましいであろう。このブログの主体は文字である。文字で考えたほうが、まだ整合性は発揮される。
方や、私はイメージの種族である。日頃からイメージで生活している。であれば、それを活かす方法も持ち合わせたほうが良い。絵である。絵の表現方法を一刻も早く手中に収めなければならない。
こんなところであろうか。
ちなみに、もはや水と等しい音楽には手を出さない。私には採水事業を執り行なおうと思ったことがない。
そう考えれば、表現とは、深層の場でそれほど興味のない分野において発揮されるもののように思える。音楽なんて私が作ったところで、その不味さに辟易してしまうだろうから。