まどどブログ

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2022.01.11(残80日) 「上級国民」について

2022.01.11

あと80日

 

 恨めしい。私の純情に対する侮辱が、いったい許されようか。殺意に魘されて寝られないほどに、恨めしい。

 いや、そんなことはない。単なる嗜好品なのだ。気に留める必要すらない。どうでも良いではないか。無くとも良いものなのだ。

 この二つで揺れ動く。そして忘れる。この繰り返しである。

 

  • 「上級国民」という言葉の醜さ

 私は「上級国民」という言葉が嫌いである。「上級国民」と呼ばれる人々に等しく憎悪を抱いているわけではない。言葉そのもの、概念そのものを心底軽蔑しているのだ。

 この言葉は、何か高い地位にある者が特権的な扱いを受けている「と想像される」ときに使用されるものであるらしい。私の美意識において、そういう人間はただならぬ醜さとして映る。その愚鈍さは、もはや穢れである。

 その「特権」とやらが事実として存在しているのか、先例と著しく離れているものなのか。それは知らない。それとは異なる階層の問題である。そういうことを言う人間はたいてい、なぜ「上級国民」とされる人々が高い地位を保有しているのか、考えたこともないのであろうか。

 

  • 社会的地位とは努力の結実

 そもそも社会的地位というのは、それこそ血の滲むような努力の果実である。古くは家柄に限定されていた。しかし、少なくとも現代日本においてはどうではない。平民であろうとも、自らを供物にすることによって、頂点に登る権利は少なからず用意されているのだ。

 例えば、事務次官を例に取ろうか。彼らは多かれ少なかれ、勉学とともに青春を過ごす。そして最高学府に進学し、国家公務員試験に合格し、官庁訪問も突破して、ようやく卒業と入庁を果たす。それで終わるわけがない。公僕という名にふさわしい過酷な労働と、苛烈な出世競争に巻き込まれる。それを耐える。耐える。耐えて、耐えて、三十余年。その果てに、事務次官というたった一つ用意された「上級国民」に成り上がる。魂を何者かに捧げて、すべてを耐え忍び、文字通り血を吐いて、涙に明け暮れて、それでも努力し続けて、結果として彼らは社会的地位を手に入れるのだ。事務次官とまで行かずとも、官僚であれば似たようなものであろう。

 そしてこれは、官僚に限ったことではない。社長であろうとも、学者であろうとも、研究者であろうとも、何もかも、同じである。気の遠くなる辛抱の果てに用意されたものに過ぎない。何か天から突如として、あくまで確率的なものとして降ってくる。そういうものではない。政治家については多少家柄も要素として加わると思われるが、それでも努力が背後に潜んでいるのは間違いない。政治家を政治家たらしめるのは、詰まるところ有権者なのだから。

 

  • 家柄という涙

 さらに言おうか。家柄とて、そもそも努力の血潮である。家柄を家柄として保つのに、彼らはどれほどの勉学を、どれほどの鍛錬を積んでいるのであろう。世界の名だたる皇族・王族など、私は見ていて悲しい気分になる。プライバシーを奪われ、青春を奪われ、表情を奪われ、恨まれ、憎まれ、結婚すら自由に出来ず、それでやっと、多少の財産と多少の地位を確保する。絶対君主ならばいざ知らず、立憲君主なぞ、もはや平民に使役されているという錯覚すら抱く。

 マルグレーテ2世の逸話を知っているであろうか。元々デンマーク王は男子による相続であった。それが紆余曲折の果てに、女系も承認され、かの女王陛下——当時は王女殿下——が王位継承者に指名された。王女殿下は泣いたらしい。私は普通の女の子のように暮らしたい、と。

 何も君主に限ったことではなかろう。家柄とは、自由の代償に財産と地位を与える装置である。彼らもまた、自由を奪われるという苦役に、血の滲むほどの努力をもって応えている。得られる財産と地位の比重が年々小さくなっていく昨今であれば、尚更その努力は輝きを増す。

 

  • 努力を知らない者たちよ

 そして、努力を知らない者が、「上級国民」などと言う言葉を用いる。彼らの努力、ではない。努力そのもの。努力そのものに触れたことのない者たち。私はこう言っているのだ。

 努力なぞしたこともないのだろう。努力というものが世間に存在することを知らないから、「上級国民」などという卑劣な言葉を生成する。卑劣そのものである。どれほどの受難を経た祝福なのか、想像したことはないのか。いや、そんなことまで気が回らないか。大学に進むには受験が必要で、合格するには夥しいほどの学習が必要で、しかもそれはスタートラインに過ぎない、とか、そういうことを教えてあげたくなってしまう。そういう親心が働くほどに稚拙で野蛮である。

 愚かしい。自らが何も知らないことを知らない。それでいて、さも高尚なことを語っているような装いを見せる。下らない。下品で卑しい。穢らわしい。

 故に私はこの言葉を憎む。無知を知らぬ、醜さそのものだから。

 

 無論、法の下の平等が犯されることなど許されるべきではない。度を越した優遇も、努力の見返りとは言えど、平民としての利益を考えれば望ましいとは言えない。

 しかし、そのような現象は実際に発生しているのであろうか。サンプルデータが在るのならば、見せてほしいものである。

 

  • 補記

 さて、私とて何も知らないのだから、何を偉そうに語ろうとも意味がない。そんな指摘は真っ当である。

 が、それを言って仕舞えば、私は人間としての役割を奪われてしまう。

 

2022.01.25 追記

 ここで怒っているのはあくまで「心から侮蔑ないし批判を込めてこの単語を使用している者」に対して、である。特に大きな意味を付与せず使っている場合はこの限りでない。例えば「おれも上級国民になりたい人生だった」とかね。

 いや。上級国民って言葉そのものに本気でブチギレてる、そんな意味不明なやつだと思われたらイヤでしょ。俺はただ使っているだけでキレたりしない。怖いわ、そんなん。