まどどブログ

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2022.01.18(残73日) 真の合理と人間について

2022.01.18

あと73日

 

  • 真の合理とは何か

 私は合理を愛しているようで、その実、直感にも忠実である。何故か。直感は神仏のお導きだと考えているから。無論、理知との対話は欠かさない。それでも、直感の主張が頑なであれば、たいてい私は操縦桿を委ねる。

 矛盾している。神仏とは、宗教とは、即ち不合理の結晶である。神仏など合理から離れている。そのような存在を信ずる者は合理を語る資格など無い。そう思うであろうか。違う。合理とは、何も言語によってのみ形成されるものではない。それは合理のあまり、非合理敵である。真の合理とは、予測不可能なものをも組み込んで理と為すことである。

 我々は多かれ少なかれ、すべて言語によって説明されているとは言い難い要因に支配されている。例えば怒り。怒りによって、我々は最適な手段から遠く離れた行動に出る。殺人など、その典型であろう。法によって、社会的に、あるいは真に抹殺される。それが本人の望みであるのは疑う余地など無いものの、客観的に観察すれば、それは到底優れた判断とは言えない。例えば愛。愛など無くとも生きていける、単なる嗜好品なのだから、何を重んじることもない。しかし、気に病む者が後を絶たないのは、歴史的に見ても明らかである。

 それをも支配するのが合理である。人間の感情。それによって巻き起こる渦。予測不可能な事象。それをも変数に組み込み、最適なモデルを構築する。それが合理の意義であり、私の盲信する柱である。

 直感とて同じである。例えば、これをしたい。それにはコストが掛かる。最適解を考える。それを抑え込み、他のものに資金を回すのが妥当であろう。しかし、直感の声は騒がしくて耐えない。考える。考える。考えて、それでもなお声高に物申すのであれば、もう直感に従ってしまったほうがよい。それによって失われる機会費用を考慮すれば、また合理的である。神仏のお導き、そう考えて、有難がるくらいで良い。それが効用の最大化に結びつく。これも合理。

  • 合理は清濁併せ呑むもの

 合理とは、そのように働いて然るべきものである。「合理」を標榜する経営者ないし政治家が、論理的思考の末に従者の信を失うなど、僭称も甚だしい。機能不全を起こしてしまうことによって、結果として己の効用を小さくしてしまっているではないか。仮に論理的には無意味なことであろうと、人間の非論理的行動をも飲み込むことこそが合理である。

 人間が愚かであることすら、加味して演算する者。それを私は社会的合理人と呼ぼう。