まどどブログ

普通の男子大学生が、有名作家になるか、破滅するか。そんな人生ドキドキギャンブルの行く末を提供しています。

2022.01.19(残72日) "House of Gucci"と良作の足について

2022.01.19

あと72日

 

 体調の悪い原因はいともたやすく判明した。

 陽光である。私は植物であり、光合成を行う。故に陽光が不足していれば体内の気は乱れる。それだけのことであったのだ。

 

  • たった五秒の無謬性

 “House of Gucci”を観たことはあるであろうか。絶賛上映中の作品である。私は数日前に観た。

 映画には特別に素人である私だが、断言しても良い。あれは良い作品である。何となく優れているように思えたから。ではない。演技がどうであるとか、筋書きがはっきりしているとか、そういうものでもない。むしろ、脚本に関しては煩雑にして霧中、という感触すら覚える。それでもあの作品は秀でている。何故か。この程度であればネタバレにもならないであろう。

 作中に五秒ほど、日本人の集団が登場する。銀行マンか何かの出張であろうか、塊になって、画面の右端に少しばかり映る。セリフもたった一つ「こんにちは」だけ。フォーカスすら合っていない。あからさまな脇役である。アジア市場への進出を示すだけの装置として、日本人は作中に現れる。

 その彼らは、まさしくバブルそのものであった。銀スーツで身を固める男性もそうだが、特筆すべきは女性である。一瞥しただけでバブルであると——日本人であれば——識別できる、あの特徴的な髪と、特徴的な服。ワンレンとボディコンというのであろうか。私は詳しくない。とにかく、彼らは明らかにバブル世代であった。バブルを背負って、彼らは作品の中に在った。故に良作である。

 たったそれだけのこと。否。それだけだから価値を持つ。それだけのことにまで気を回す。それが良作の足であるのだから。

 考えてほしい。あの場面において、日本人がバブルの格好をしている意味は無い。厳密に言えば、その意味を知っているのは日本人だけである。あの時代、日本において「バブル」が進行していて、独自の文化があって、特徴的な風貌で街を闊歩していた。それを我々以外は恐らく知らない。製作者とて同様である。彼らは日本人ではない。異国の1980年代の文化など、知らなくとも何ら不思議ではない。

 そして、あの作品はおよそ日本市場に向けて作成されたものでもない。あの場面で現代のように質素な格好をしていようとも、恐らく誰も気づきはしない。前の展開を踏まえて、「本当に日本人が登場したぞ」と少し笑いを誘って終わりである。服装など多くの人間にとっては——我々が当時のイタリアの流行を知らないのと同様に——興味の外にある。

 さらに言えば、主役でも何でも無い。たった五秒、フォーカスから外れる存在。我々ですら、あの格好で無ければ誰も「ああ、日本ではバブルだったか」と気づかなかったであろう。少なくとも私は何を思うこともない。それほど速やかに場面は終了した。

 それでも、彼らはバブルの装いをしていた。1980年代。その作品の背景を忠実に守るために、彼らにバブルを着せた。それによって、あのたった五秒で、80年代の匂いは強く放たれる。誰であろうとも——日本人であろうとも、バブル世代であろうとも、服飾に通じた者であろうとも——80年代の世界に飲み込んで離さない。たった五秒であろうとも。注目すらされずとも。ほんの少しでも、隙間を許さない。

 もはや意地である。多くの面で意味はないのだから。しかし、実際に為されている。これが良作たる理由である。

 

  • 良作の足たる整合性

 どのような作品であっても、同様であろう。作品の整合性を守る。言うのは容易いが、実行には膨大な知識と繊細な目利きを要する。ほんの一瞬たりとも矛盾を許さないというのは、一般的な日常においても困難なものである。それを創作物の中においても許さない。どれほどの注意を向けていれば良いか。考えただけでも胃が痛む。

 その果てに、きっと良作というのはあるのだろう。整合性の徹底されたものは、どのようなストーリーであろうとも美しいから。故に足である。整合性こそが、作品を立たせる。

 

2022.01.24 追記

 原作に上記の場面の描写でもあったのかもしれない、とふと思った。それでも、バブルの再現度が高いのは評価に値する事項である。