2022.01.24
あと67日
私の愛するもの。それは非日常である。想像もつかないような光景。想像もつかないような色。想像もつかないような音。想像も付かないものたち。それらを私は愛している。
旅行はその一つであった。古くから私は旅行を愛していた。国内ではあるものの、所構わず動き回ってはその土地を堪能し尽くした。それが何よりも幸いであった。
しかし、最近ではもはや旅行を趣味と呼ぶことすら憚られる。少なくとも現状で、旅行は私を揺り動さない。何故か。一つは、逃げるべき現実が存在しないから。旅行は現実逃避でもあった。醜い浮世を捨てて放浪する。それが救いでもあった。今は違う。今はここが私の根城である。
そしてもう一つは、旅行が非日常でなくなってしまったから。気付いたのだ。少なくとも国内であれば、これまでの経験と、これまでの写真とで、想像できてしまう。そこを訪れた私が、何を感じるのか。何に目を奪われるのか。何を楽しむのか。予測できてしまう。それを非日常などと、呼ぶことができようか。不可能だ。
それよりも、素晴らしい音楽に巡り合う、その感動が、もはや勝ってしまう。ああ、これもまた成長であろうか。
- 糸としての関係性
人間関係は、糸に例えて、四つに分類されると考える。
第一に、海底ケーブル。幾多もの銅線によって、強靭に結ばれている。それが崩壊するには、よほどの天変地異でも無い限り、有り得ない。そういう関係性。家族や恋人を主に想定している。
第二に、一本のピアノ線。細いが、強い。あまりに細いもので、お互い気付いているか否か知らない。しかし、少なくとも、綻ぶことなど有り得ない。そういう関係性。親友であろうか。
第三に、納豆の糸。非常に脆いようで、簡単には切れない。ふわりふわりと風に浮きつつ、緩やかに続いていく。そういう関係性。ほとんどの人間関係はこれに該当するであろう。
第四に、切れた糸。ひたすら長く続いていて、その糸がどのようになっているのか、しばらく手繰り寄せてみなければわからない。ずっと手繰り寄せる。あらゆる方法を用いて、ただ黙々と、こちらに糸をかき集める。どのくらいであろうか。その結果、糸の先端が見える。切れてしまった糸を。何が付着しているわけでもない。ただ、何もない。無である。糸の先には、空虚があるのみ。それが、第四の関係性。もはや修復できないもの。壊れてしまったもの。これを、簡潔に言えば「破綻」と言う。
そんなもの、神仏とて始末に困ってしまうだろう。既になくなってしまったものを創造することなど、神仏とて出来やしない。黄泉の国に送られてしまったのだ。その復活をただ願う愚かな人間にも、神仏は温かく教えを与えてくれた。
なぜ、気づかなかったんだろう。いや。誤魔化していただけだ。私はまた、現実から逃げていた。
何か。これを活かせば良いだけである。所詮嗜好品なのだ。酒や煙草の類は私が使うものであって、決して使われるものではない。あってはならない。