2022.01.25
あと66日
今日のは久々に力作である。
- 「善」が支配する作品
私は「善」が支配する作品について苦手意識を持っている。評価できない、という意味ではない。ただ、苦手なのだ。受け入れがたい。どのように優れている作品であろうとも、何か薄く膜の張っているような気色悪さを覚える。登場人物の笑顔であったり、涙であったり、それらが生物としての反応を越えた、生物としての正しい顔を塗り替えた、いわば極楽浄土に在る天人のような不自然さを催すのである。
勧善懲悪であれば良い。悪を徹底的に殺す。そういうものであれば、善はあくまで悪と和解せず終わる。「善」の支配がそら寒いのである。僭越ながら例を述べれば、『鋼の錬金術師』とか。悪役のすべてが、最期に「善」たる弱さを見せて果てる。そして世界が「善」に満たされる。「悪」をも「善」で書き換える。それが如何にも不可思議である。
誤解しないでほしい。これは作品の嫌悪を意味しない。『鋼の錬金術師』を私は極めて高く評価している。いや、評価する、などという言葉が烏滸がましいように思えるほど、あれは優れた作品である。優れていようとも、手放しで受け入れられない。そういうものもある。
そして言うまでもなく、これを一般的な感覚として認識していない。私の価値観によって形成されたものに過ぎない。では、それは何か。
- 効用としての正しさ
結論を述べれば、私は個々に「正義」が存在すると考える。故に、善が悪を塗り替えることなど、正義への裏切りに等しいのであるから、有り得ない。そう考えている。
正義とは何か。哲学は避けたい。各々正しいと思っていること。それを正義としよう。どのような人間であろうとも、それに基づいて行動している。ここで「正しい」とは何か。効用の最大化である。
以前詳しく述べたが、人間は内面以外に感知できることなど何も無いのだから、どのような選択肢であろうともそれは内面においてのみ比較・検討され、その結果として最良だと判断されたものが無意識に示されるに違いない、と私は考える。例えば、富を犠牲にしてまで慈善に注力するのは、それが己にとって最大の幸福であるから。これについて、身体の自由を奪われている場合でも無い限り、現状で反例を私は考え付いていない。「国家のことを考えれば〜」などと言うのは、「国家のことを考えることが己にとって最も幸福である」という思考の表明に他ならないし、決して真に国益と直結するものではない。インターネットに蔓延する論客を見ていれば、理解も進もう。
つまり、人間は効用の最大化を自明に求める。その考えに基づいて観察すれば、正しさとは、即ち効用を最大化すると考えられる手段のことを意味する。例えば人を殺めるのは、それが最も効用を最大化させる要因であるのだから、正しさである。例えば人を救うのは、それが最も効用を最大化させる要因であるのだから、正しさである。例えば人を犯すのは、それが最も効用を最大化させる要因であるのだから、正しさである。それぞれに正しさが存在する。それが個々における正義である。そう私は考える。
- 善と悪と正しさと
それを、善か悪かによって振り分けるのは。その前に、そもそも善について語るのであれば「善とは何か」という問いから闘わなければならないであろうが、浅学の私は「普遍的に受け入れられた正しさ」という極めて辞書的な解釈を採っている。「普遍とは何か」「受け入れるとは何か」なんて議論にも着火しかねないが、まあ、勘弁してほしい。
話を戻そう。それを善か悪かによって振り分けるのは——上記の解釈に依れば——あくまで普遍的であるか否か、ということに過ぎない。共有される効用、と言い換えても良いかもしれない。人を救うのは普遍的に効用を高めるので、善である。反対に、人を殺すのは(無論、生存本能の観点から)普遍的に効用を低下させるので、悪である。そのように善と悪とは区別される。
そして、人間は一様の正しさを持たない。単に快楽を得たいから人を殺しているのかもしれないし、何か崇高な思想に基づいて人を殺しているのかもしれない。その複合かもしれない。効用を決定する要因が一つではないように、正しさもまた一つではない。故に、同様の人物にも善と悪とは一つではない。徹底した悪役もいれば、理解出来る面もある悪役とて在る。それは矛盾ではない。一人の人物に数多もの善悪を入れ込んでいるのだ。素晴らしいではないか。厚みの増していて見応えがある。
- 善たる世界は存在するか?
ここで考えてみたい。善なる人間は存在するか。普遍的に効用を高めると期待されている、その要素によってのみ構築される人間。否。善なる人間など存在しない。すべてにおいて善なる人間など、この世に居てはならない。それは死人である。極楽に登り詰めてしまった、哀れな亡骸である。人間は、ほぼ間違いなく、多かれ少なかれ、普遍的に効用を低下させると期待される要因に見舞われている。
根拠は何か。周囲の人間を、世界の事象を、自身を、省みることによって導出された。私のステレオタイプの結晶である。そして、これを否定する者は少ないのではなかろうか。
では、世界はどうか。善なる人間が一人も居ないのに、どうして世界が善に染められようか。悪たる世界は在っても、善たる世界など存在しない。それはまさしく極楽浄土、約束の地、黄泉の国、冥府である。屍者の帝国である。つまり、その世界は生きていない。死んでいる。
これが、私の不気味さの根幹である。善に支配された世界は、死の世界に等しい。私は死が怖い。だから善の極地も怖い。そういうものである。
断っておきたい。『鋼の錬金術師』を死んだ作品だと言っているのではない。あくまで個別の事象から離れて考えたときに見出された結論であって、あの作品は生きている。優れている。豊かな感情に溢れている。ただ、作者も意図していたらしい「感謝」の噴火が、私には怖いのだ。人間が怖いから。
わかってほしい。私はあの作品を愛しているのだ。ただ、愛していても、ふわりとした不安というのは付いて回る。そういうものだろう、人間でも。