2022.01.26
あと65日
労働アレルギーなので、労働は出来ません。
このご時世にまだ労働しているんですか?笑
ワークハラスメントやめてください!
——ああ。こう言ってみたいものである。私は労働アレルギーなのだ。このまま労働を続けて仕舞えば、遠からず破綻する。息絶える前にパラダイム・シフトを期待する。
- 協同の非効率的さ
そもそも、個人レベルで考えれば、人間同士が協力して何かを達成するというのは非効率的である。何故か。互いの真意を突き詰めて把握し、成就させることなど不可能だから。
人間というものは自己のことしか理解できないし、効用を最大化させようと企む。そして効用というものは主観であり、共通しているものでもない。そこで摩擦が発生する。
他者の望みを読み違え、要求の対立がプロジェクトを停滞させる、運良く進行したとしても、妥協が妥協を生み、何となく優れているようなものが完成する。それは非効率的である。真に優れているものは妥協の産物でないはずだ。他者との協同など、排除されることが望ましい。
では、どのような形が最も望ましいか。それは、個々の帝国を形成することに在る。協同の非効率的さは、すべて我々が外面を認知できないことにある。効率性を求めるのであれば、外面を排除すれば良い。即ち、自己の欲求と、それを達成する機械群——AIなどであろうか、私は詳しくない——に限定して、プロジェクトの構成員と為せば良い。これによって、妥協も気遣いも、感情も必要ない、美しいプロセスが実現できる。
他者との協同によって多様性が生まれる。それは確かであるが、もはや機械群で代替可能であろう。この世界には、我々の脳を遥かに凌駕するデータベースが存在する。機械群はそれを脳として使用できる。何も人間である必要性などない。有意義な情報を機械群によって提示していただく。それに何の意図も隠されていないのだから、その提言は内面として処理できる。故に合理とかけ離れた事象に頭を悩ませる必要もない。
労働はそれを許さない。どのような形態であろうとも、労働に必ず協同は付属する。草刈りですら、それには協同が伴う。
だから私は労働を嫌悪する。無論、これがすべてを説明しているわけではないが、一部には、このようなものも存在する。
薄っぺらいことを、よくもまあつらつらと。我ながら敬服する。
要は、死なず、働かず、誰とも会わず、気ままにのんびり過ごしたい。それだけだ。
それを許さないから、私は世界が憎い。