まどどブログ

普通の二十代前半男性が、夢を見るか、破滅するか。そんな人生ドキドキギャンブルの行く末を提供しています。

2022.01.29(残62日) 絵に関する大原則の「発見」について

2022.01.29

あと62日

 

 早起きしたところで、結局活動を開始するのは11時。一体俺は何をしていたんだ。

 

  • 空間認識能力の死んでいる私が絵に挑戦してみたら

 昨日、初めて真っ向からおえかきというものに臨んでみた。率直に言おう。驚きである。どのような驚きか。鳴神が舞い降りたのだ。僥倖というか望外というか目から鱗というか。鳴神のお告げ。そう説明するのが最も適しているように思える。

 先に断っておけば、私は恐らく、右脳の働きが常人のそれに比して遥かに弱い。例えば算数で投影図を三つ見せられて、「この立体はどういう形をしているかな?」という問題があったと思われる。私にはそれが鬼門であった。一定の複雑さを超過すると、もはや正答が判別できない。何となく、で選ぶしか無い。その程度に、空間認識能力が壊滅的なのだ。

 それを哀れんで下さったのか、左脳の働きは人より少し活発である。文字通りその御蔭で、少なくとも日常生活において、このように何不自由なく生活できる程度の思考力を確保している。が、それは裏を返せば、感性が死んでいるということ。絵など、それに依って描くことなど不可能であった。

 しかし、思ったのである。右脳が満足に従事できないのであれば、左脳によって輔弼すればよいのではないか。あくまで論理として、あくまで言葉として。この若輩の歩んだ僅かな人生における経験を類似適用できるようなプロセスに落とし込んで仕舞えば良いと。

 大当たりであった。私は絵の大原則を発見したのだ。恐らく多くの人間が無意識下で実行しているであろう感覚を、私は言語化に成功した。まさしく「ディスカヴァリー」である。今日はそれを遺しておきたい。

 なお、以下のことは恐らく手練からすれば当然のことである。が、感覚を言語として認知しておくのは、重大な意味を持つ。

 

  • 絵は二次元ではない

 よく絵のキャラクターなどを指して「二次元」と呼ぶ。確かに、定義としては紛れもなく「二次元」である。二つの座標によってすべての点が説明される。しかし、視覚的に捉えたときに、それを、例えば目の前のキャラクターなり背景なりを平面だと捉えるのは極めて危険である。絵は決して平面ではない。むしろ、カメラを通して捉えた一場面、として認識することが適切である。

 まず、絵は何故違和感なく、自然なものとして認識できるのか。それは我々の視覚が採っている空間認識をなぞっているからに他ならない。回りを見渡してほしい。目という一点を基準に、前に来るものが強調されて、それに隠れるものは見えない。前に来るものは僅かに大きく、後ろに来るものは僅かに小さく。そして、視点の移動によって、見えるものは変化する。下から見ていたら見えなかった箱の上面が、上に移動したら見えるようになっている。が、必ず、その移ろいは目という一点の動きにのみ左右される。この大原則を、我々は律儀に守っている。

 絵とて、それをしっかり守っている。少しばかり現実との乖離はあるものの、前に来るものの線を上にすることで前のものを強調しているし、何が見えて何が見えないか、何が何にどのように隠されているかは、必ず一点の視点を意識したものとなっている。つまり、カメラである。絵はカメラを通して見た「あちら側の世界」に他ならない。あちら側にはしっかり立体があって、それを絵によって抽象的に表現している。そう捉えたほうが自然なものになる。

 絵に対する解釈として、我々が平面を見ている、と考えるのは避けたい。むしろ、あちら側の世界にカメラが設置されている。そう思うのが、より適切である。

 では、そう思ったから何の意味があるのか。簡単である。カメラの位置によって、それぞれのパーツの位置関係は決定されるのだ。

 絵がパーツごとに描かれるのは有名なことであろう。その中で、よく「前に来るものの線を上に」とか、「立体感を意識しよう」とか、そう言われる。しかし、それは一体何を基準にして「前」なのだろうか。何を基準にして「立体感を意識」すればよいのか。それはカメラであった。絵を眺めている視点。それを基準に、前か後ろか、見える側面か見えない側面か、決定されるのであった。

 動物の絵などはわかりやすい。マズルを例に採ろう。動物にはマズルと言って、長い長い口が存在する。それの描き方は視点によって大きく変化する。同じ「斜め顔」と言っても、上ないし下から少し覗くように見ていれば、その長い口は立体的になるよう意識して描かなければならない。しかし、横から見ているならば、軽く線で処理すれば良い。マズル一つ挙げてもこれだけ異なる。まして、動物たちは耳もふくよかである。人間のようにへばり付いているわけではない。尻尾だってそう。視点によって、変化を出さなければならない。

 これで視点の意識が無ければどうであろう。よく言われているような描き方をしてしまったら。例えば動物のマズルも耳もすべて線で、どの視点においても横から見えているように処理してしまったら。どこか違和感の拭えない、しかし何が違うのかわからない。そういう状況に陥ってしまう。それもそのはずである。その絵には視点も遠近法も存在しない、いわば自然のものではない描き方をしているのだから。

 私はこれを「エセキュビズム」と呼んでいる。ピカソが意図して描いた崇高なキュビズムとは異なる、無意識に立体感を喪失している凡作。これがエセキュビズムである。幼児に多いあの違和感も、おそらくはこの類であろう。

 エセキュビズムからの脱却は、絵における最初の一歩、そして大きな一歩であろう。私はそう感じている。

 

  • 絵は学問

 もう一つ。絵は複合的に見えて、その実、学問である。

 絵は複合的な要因によって描かれる。例えば人物を描きたいとする。一口に人物と言えど、それにはあらゆる要因が絡み合う。髪はどう表現すれば良いか。線はどのように濃淡つければ良いか。服は。顔は。影は。そういうあらゆる要因が一挙にのしかかってきて、混乱する。絵の苦手な者——私もその一人だが——はこれで挫折し、放棄する。

 が、私はまた天啓を得た。絵の要因とて、学問のように分解可能なのではないか。例えば、数学。高校生の範囲で言えば、方程式に関する知識、もっと言えば、加算や乗算に関する知識無くして、漸化式に挑戦しようとする者は居るであろうか。例えば、古文。文法・語彙の知識、もっと言えば読解の基礎なくして、源氏物語に取り掛かろうとする愚者は居るか。居ないだろう。

 絵とて同じである。つまり、要素ごとに着実に練習を積むのが肝要なのである。例えば、服の練習をしたいと思ったときには、顔もポーズも影もすべて無視して、ひたすら服についての理解を深める。顔なんて十字で良いし、ポーズなんて—–服の修練に支障を来さない程度の正確性を持っていれば——手を抜いて良い。そういうふうに、具体的な課題を一つ一つ解消していく。それらを踏まえて、描きたい人物を絵にする。描きたい光景を絵にする。そうやって、それぞれの要素を一つの応用へと発展させる。あたかも収集した文法と語彙が源氏物語に集合するかのように。それが、感性亡き者にとって、最も効率的な上達への手法である。

 そのためには、自身のわからない、あるいは曖昧な点をすべて仔細に書き出さなければならない。何を知っていて、何を知らないでいて、何が理解できないか。それをすべて書き出す。それが、一つ一つ乗り越えるべき課題である。

 無論、これを煩わしいと感じる者も居よう。それはそれで良い。が、あくまで論理一辺倒でやってきたような人間にとっては、これがいちばん分かりやすい。

 そうだな、勉学や仕事は得意だけれど絵は苦手、そういう人間にはこれが向いているかも。少なくとも私はこう思っている。

 

  • 性分として

 そもそも私の性分として、「具体の制圧」というものを好む傾向にある。詳細な課題を列挙して、それと一つ一つ戦争して潰す。これが私にとっては快感なのである。翻って、全方位戦略は得意としない。例えばスポーツとか。ああいう、身体全体を連動させるようなものは課題の掴みどころが乏しいので苦手である。

 実は小説もその類かも。小説は感性の大国である。読む分に分析は容易い。が、書いていると、なぜこれが面白みに欠けるのか、だんだん分からなくなってくる。課題は雲のようにふわふわと散ってしまう。抽象的な課題ばかりが羅列されていく。

 ダメじゃん。

 

 ああ、やっぱり私は口下手である。イメージが脳に思い浮かんでいるのに、それを文字に落とすと10%も通じない。絵を交えて説明したい、と何度思ったことか。悲しきかな。これも天命か。

 ちなみに、私とて超弩級の素人なので、この作戦が誤っている可能性はある。その場合は、都度修正したい。

 なんと。つい熱が入って三千六百字余りも記してしまった。悪い癖である。これはあくまでルーティーンであるというのに。