まどどブログ

普通の男子大学生が、有名作家になるか、破滅するか。そんな人生ドキドキギャンブルの行く末を提供しています。

2022.02.01(残59日) 物語の神性について

2022.02.01

あと59日

 

 自身の性的なエピソードというのは、何も自慢できるものではない。いや、正確に言えば、そのようなことを自慢するような人間、そしてその環境というのは、あまりに野性的で貧しい。少なくとも、理性的ではない。

 それでも私は嫉妬してしまう。自分の知らないものを知っている。私の持たないものを持つ。それがただ羨ましいのだ。私は何でもそうなのだ。アインシュタインにすら、御堂殿にすら、私は嫉妬する。セックスとて、その一部に他ならない。私にも近しいか否か、その差はあれど。

 

  • 物語が物語たる理由

 物語はなぜ物語として世に出されなければならないのか。私はいつも考えている。

 強く思うのだ。例えばなろう系。あれは最初から漫画で描けば良いであろう。何も文字媒体を経由する必要がない。現に、コミカライズなどといって、数多の作品が視覚情報に変換されて世に出されている。そうするのであれば、はじめから漫画として世に出せば良い。私の観測する限り、少なくともなろう系に限ってはなんら支障を来すこともない。

 何もかの作品に限ったものでもない。私は強く思う。昨今は漫画やアニメ、ドラマなど、視覚媒体の発達が著しい。何も文字という迂回路をあえて選択する必要も薄い。物語の多くは視覚媒体によって置換可能であるし、実際、置換されている。

 では、なぜそれでも、物語は物語として存在しなければならないのか。無論、物語が今でも跋扈するのは、文字というものの敷居の低さが考えられる。日本におかれましては幸い識字率が高いので、みな文字というものが身近である。故にそれで物語という媒体を選択する。

 が、それは存在「しなければならない」理由ではない。許されているだけである。絵というものが我々にもリーズナブルな手段となって仕舞えば、漫画に置換されてしまうような脆さである。

 さて、現代において、物語にのみ与えられた意味というのは、一体何か。

 

  • 文字は神を纏う

 私にはわからない。知らないことは知らない。が、一つ考えられる。神である。文字は神を纏う。

 現代における視覚技術というのは、現状、俗世の域を出ない。漫画はその典型である。市井に広く受け入れられたと言え、未だ「娯楽物」の域を出ない。ドラマや映画とて同じ。我々はまだそれらを消費するに留まっている。

 かたや、古来の文化は娯楽という側面を帯びつつ、神とともに在った。美術は神を描き出し、文字は神を語った。宗教、神、神聖さ、それらとは離縁できない関係であった。むしろ、神が先に在ったのかもしれない。

 現代においてもそれは変化しない。美術はその絵画で神の息吹を見出し、文字はその紙面で神の物語を述べる。

 つまり、物語の神聖さは、他のものによって置換されない。可能なのは絵画であろうが、絵画は物語を仔細に伝えるのに不向きである。

 

 それを踏まえて考えれば、当座私が取り組むべきは、神話である。物語が物語であるためには、神話を織り出すのが現状における最適解である。

 が、嫌なのだ。すごく嫌だ。言い換える必要もない。三歳児の感じる「イヤ」なのだ。生理的な拒否反応、というやつか。物語に没入する日々というのは、確実に悪夢を見る。今日はゴキブリが何匹もベッドに入り込んできた。なんだ、それは。そうして眠りは浅くなっていくし、現実と物語との境界が日に日に曖昧になっていく。

 だから私は作家に向いていない。作家を志すならば、恐らく正気を失う。ニーチェのように。私がニーチェとでも言いたいのであろうか。才も度胸もない孤独な男が?