2022.02.03
あと57日
ああ、俺はどうして何も出来ないんだろう。
昨日の夢だってそうだ。昨日の夢は間違いなく綺麗だった。なのに、それをなんとか現世のものにしようと対峙しても、出来上がるのは駄文だけ。絵も下手。
これじゃ作家は愚か、何にもなれやしない。
などと言ってもいられないのである。俺は男だから。男は敵を殺してこそ輝くのである。そして、今の俺の敵とは、臆病それそのもの。俺が出来ると感じているのだからやらざるを得ないのだ。
ああ、永遠の命があればなあ。
- シャーマンたる私
神を身近に感じることはあるだろうか。私にはある。
オカルトについて語っているわけではない。亡霊が視えるとか声が聴こえるとか、そういうものではないのだ。少なくとも私にはそのような現象を感知したことがない。墓地なんかでも私は平気だ。そこにはカルシウムの集合体が埋められているに過ぎない。ただ、私は音楽に神を見出すのだ。
稀に、音楽と自己との境界を喪失することがある。多くの場合、音楽というのはその粒——例えば音高の移ろいや数多の音色——を外的なものとして取り込むことによって聴く。例えば何か作業をしているとき、音楽はその調整剤として、また調和の取れた音によって自己を集中させる装置として、使用すると思う。それはつまり、作業というものがあくまでメインディッシュなのであって、音楽はそれを少しばかり立てるテーブル、というのがふさわしい。
が、私には稀に、音楽がテーブルの域を簡単に越えて、いつの間にか舌となっていることがある。粒は脳に何の断りもなく入り込んで、その粒に私の意識は強く引っ張られる。音の移ろいがそのまま魂の移ろいとなる。そして、自己の感情は音楽の感情となってしまう。こういうとき、私は神を感じるのだ。
恐らく、私はシャーマンなのであろう。幼い頃の私は、シャーマンを嘘つきだと思っていた。それは大きな誤りである。シャーマンは嘘つきなのではない。ただ、彼らの自己と世界とが溶け合ってしまった結果なのだ。自己意識と関連のないところ、いや自己意識を超越して何か浮かび上がってしまった考え、それは本人にとっても「神の言葉」なのだ。自己意識の作用ではない。自己と世界とが曖昧になったことでもたらされる言葉なのだから。ドラッグは破壊的なインスパイアを授けるという。それは嘘つきだろうか。いや。「天啓」なのだ。
故に私の創作とはシャーマニズムなのである。本来の私というのは、およそ表現に向いている人間ではない。感性亡き男なのだ。が、稀に「神の言葉」が聴こえる。それが表現として成る。これがシャーマニズムでなくて、何であろう?
が、天啓だよりの表現というのは非効率的である。いつにいったら、天啓は私の側に常駐してくれるものであろうか。