まどどブログ

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2022.02.09(残51日) メッセージカードについて

2022.02.09

あと51日

 

 春が近づく。春とは即ち、環境の変化である。新しい季節でもあり、別れの季節でもある。多くの人間関係が春によって切断される。その寂寞たるや。これもまた、趣深い。

 

  • 塵芥にも劣る物体とは何か

 ところで、この世で公然と存在を許されつつも、無駄として際立っているものは何であろうか。簡単であろう。メッセージカードである。

 別れに際してメッセージカードを作成する者が居るであろう。私はメッセージカードほどこの世において存在に意味も価値もないものを知らない。まさしくゴミそのもの。いや、肥料にすらならないのだから、排泄物にすら劣る。この世において最も無意味で最も無価値な物体をメッセージカードと言う。何故か。

 第一に、メッセージカードは貨幣価値を持たない。平たく言えば、転売できない。故に、反論を許さず無価値である。

 第二に、受け手に何か直接的な作用を与えない。チョコレートであれば栄養になる。物品であれば、それに応じた用途で使用できる。あるいは転売もできよう。現金であれば言うまでもなく。しかし、メッセージカードに少なくとも恩恵など無い。食せば腹を下す。メルカリに出品しようと誰も買わない。何のご利益もない。

 思い出、か。笑止。その人にとってほんとうに大切な思い出であれば、それはもはや形を持っている必要すらない。記憶の中に永遠に保存される。メッセージカードを作成するというのは、物体によってしか思い出を維持できない故の行為である。そこに信頼関係が無いので、物体によって思い出を束縛させんとする、そういう呪いでしかないのだ。そして、受け手にとってその程度の価値しかない思い出であるならば、そもそも見向きすらしない。形式的でしかない。故に無駄。意義もない。

 第三に、不吉である。メッセージというのは手書きのものが多い。そして、多かれ少なかれ、手で書くということは念を移すことに繋がる。自らの文字を現すということは、それに魂を込めていることと同義である。多くの念が蠢いている。仮に人望の厚い人間であれば、それはすべて清い。しかし、仮に不満に思っていることが有って、それを思い浮かべつつ念写していたなら。ああ、不吉である。そんなものを手元に置いておきたいとは思わない。

 第四に、代替可能である。そもそもメッセージカードに書くことなど似通っている。誰も彼も、受け手との思い出、そして感謝である。それに、受け手との特別な思い出がある人間など一握りで、殆どにとっては単なる「他人」でしかない。下らない。代替可能性そのものである。それであれば初めから「特にないです。ありがとうございました。」と書いてしまった方が良い。

 

  • メッセージカードは今日から現金へ!

 これほど無駄な物体であるというのに、作成には恐ろしいほどの労力を要する。値段も付かず、受け手にとってありがたみの乏しいものに、一体どれほどの労働を裂いているのであろうか。その時間で一体いくら稼ぐことが出来たであろうか。

 何もメッセージカードというのは一人で生み出すのではない。多くによる供物である。であれば、それで少しずつ金を出し合って、何か買い与えたほうが良い。現金でも良い。その方が贈り手の苦労を低減できるし、受け手としても直接的に嬉しい。お互いにとってメリットがある。

 メッセージカードなど、誰も幸せにならない。今すぐに廃止しろ。現金を渡せ。あるいはモノ。創作物。受け手のことを尊重するのであれば、贈り物は自由に用途を選択できる現金か、受け手が自ら要望した物品か、現金によって入手できない代替不可能なもの(例えば絵や小説などの創作物)の三択に限定される。

 それ以外のものはすべて自己満足。自己満足。自己満足。自己満足に他ならない。そんなに他人を気遣っている自分が気持ち良いか。そんなに他人のために時間を使ってあげている自分が美しいか。はっきり言えばとても醜い。それで強い念の滲み出たものを渡される身にもなってみろ。とても不快である。

 ……なんて言えないのも、また私の弱さ。悲しいかな。

 

 ちなみに、バレンタインで面と向かって渡されたチョコレートさえ、内臓が横転しそうになってしまう。念の込められた食物など、誰が好き好んで食べようか。私を呪い殺したいのかもしれないのに。無理。マジでやめてくれ。例え栄養になろうとも、他者の念を摂取したくはない。

 なお、義理チョコはとても喜ばしい。何の警戒感なく食すことが出来る。有り難い。