まどどブログ

普通の二十代前半男性が、夢を見るか、破滅するか。そんな人生ドキドキギャンブルの行く末を提供しています。

2022.02.13(残47日) 表現に死ぬ際の儀式について

2022.02.13

あと47日

 

 私はどのような人間か。自己分析、などという論ずるに値しない資本主義のおもちゃではなく、なんだか不思議になって考えたことがある。今でも考えている。

 恐らく、このような人間である。一般的な人間と何一つ変わらない。ごく普通に愛を求めるし、ごく普通に笑うし、ごく普通に楽しむし、ごく普通に怒るし、ごく普通に悲しむ。そこらの者と何も変わらない、凡庸でつまらない人間である。

 そして、人間というものは多かれ少なかれ——そして善悪問わず——何かしら優れたものを保有する。私にとってのそれは何か。

 恐らく、怠惰と嫉妬と憎悪。これらはきっと誰よりも強い。

 

  • 表現に生きるという心中

 表現に生きること。それはどのようなことだろうか。考えるまでもない。きっと心中である。

 サラリーマンの優れているところというのは、とりあえず賃金に見合うだけの労務を提供さえ出来れば飢えることがないという点である。最低限、解雇されないほどのアウトプットを発揮さえしていれば、賃金をダラダラと確保し続ける。そして、私は神に愛されているようで、実務能力に関しては人並みのものを持っている。故に、恐らくサラリーマンである限り、野垂れ死ぬこともないであろう。誰かと人生を共に歩む気もないので、賃金はすべてそのまま私の可処分所得となる。そうすれば、いくぶん裕福な暮らしも実現できるのではないであろうか。

 さて、表現はそうではない。自身の作品に、文字通り命を賭ける。そもそも出版に至るまででも多くが篩にかけられ、選別される。その中で、さらに表現によって生計を維持できる者など、一体どの程度いよう。確率としては0.001程度でなかろうか。

 では、残りの0.999はどのようになるか。死ぬ。無論、飢えを甘受する人間は稀であろうから、夢を諦め、別の道を見出す。しかし、それは死と大差ない。人間は絶望と同時に死ぬ。つまり、表現で生きていく、そう決めた人間というのは、99.9%の確率で死ぬのだ。

 これが心中でなくて何になろう。もはや有名になって生き永らえるというのは、練炭自殺に失敗したようなものである。故に、多くの場面において、表現というのは趣味に留めておくのが良いのだ。確率を考えれば、死はもはや必至なのだから。

 

  • 表現に生きるか否か、決定するには

 それでも、どうしても表現に生きたいという人間はいよう。理由は何にでもある。創作が楽しくて楽しくて仕方がない。創作が無ければ死んでしまう。まあ、そういう正のベクトルも考えられる。私の場合は、労働アレルギー。

 では、自身が表現に生きるという覚悟は、決定は、一体どのように計測されるべきか。心中であるのだから、当然、重々しく、儀式として成されなければならない。これについて、私は、ある方法を思いついた。

 まず、作品を何か用意する。これは片手間に創ったものであってはならない。魂を込めて、現状の自分にはこれ以上のものを生産できない、そういう命の削り取ったかけらを用意して、眼前に展開する。

 次に、包丁を用意する。包丁を首にあてがう。刃の部分を首に付け、少しばかり力を込める。乾いた痛みがきっと走ることであろう。ゆっくりと血すら滲み出て、首に痺れるような流動を伝えるやもしれぬ。そして、多くの人間は、きっと自身の危機を感じる。何故か。これにもっと力を込めて仕舞えば、我々は絶命するのだから。たった数センチ、刃を内側に移動させることで、我々は死に絶える。

 その痛みを伴って、作品を見つめる。このとき、「ああ、俺はこれのために死んでもいい」と思ったならば。自らの命を供物として捧げることに、少しばかりの躊躇も無いのであれば。そのとき、表現は我々を出迎える。躊躇するようであれば、表現に相応しくないのだ。趣味に留めておくのが良い。その道に生きるのには、自殺という覚悟が欠如している。

 

 どうだ。わかりやすいだろう。どいつもこいつも「楽しいなら楽しいことをするべき」などと無責任なことを言うが、我々は生きるために金が必要なのだ。金の得られない活動など、自殺行為である。であれば、儀式として、自殺まがいの儀式を執行することこそ、その覚悟を明瞭なものとする。自身の生命に対して重大な危機が迫っているにも関わらず、「俺はこの作品のために、今死んでも良い」と思ってしまうほどの狂気。それこそ、表現に適している。私はそう思っている。とりわきて、私のように表現を消極的な事由によって選択しているような者であれば。

 まだそのときではない。労働アレルギーが愈々深刻な病状を見せたとき。恐らく、三年以内にその局面は訪れる。最適な時節については、神仏が仰せになることであろう。

 

  • 免責

 なお言うまでもなく、これは私のために書き記しているフィクションである。現代において、儀式などというものを真摯に受け止める者は少ない。これを実行することなど想定されていない。さらに、前述したように、少し手順を間違えれば絶命する、大変危険な方法である。読者の方は一切実行することのないように。仮に実行した場合、私は責任を一切負わない。