2022.02.15
あと45日
もう二月も折返し!?
信じがたい。信じられない。信じたくない。今年はまさしく文字通り何もしていない。ただ家で眠りこけて終了。それもそれで良いのかもしれない。が、時の流れだけは遅くしていただきたい。五歳のときのように、一時間のゲームが悠久に感じられるように。
今日は珍しく気分が良い。自身の非才を忘れているから。何もしなければ、何も出来ないということを認識することすらない。
クソが。
- 雑記
私は人間として生まれてくるべきでなかった、と強く思う。人間が嫌いだ。人間が愚かであるということとは関係なく、そもそも容姿が苦手である。動物っぽい面影でも持ち合わせているのでなければ、少なくとも気分を晴れさせるものではない。人間らしい人間と、長く時を共にしようなぞ思わない。
この間も笑ってしまった。なんと人間とは価値のない話をかくも長く続けられるのか、などと心中に懐きつつ、私は笑って真面目に受け答えをしているのだ。どうにも最近、心と体の乖離が著しい。精神病であろうか。とにかく、人間は嫌いだ。
かと言って、動物としても不適格である。生殖に一切の興味もないのだから。番を持ちたいという願望すら希薄である。さらに、臆病でもある。自然界において、真っ先に淘汰されてしまうだろう。
つまり、生まれてくるべきではなかった。そもそも生まれてくるべきではなかった。生まれてくることすら無ければ、何を感じることもない。自己すら存在しない。哀れにパソコンの前で佇む私という存在を認知することも無かった。生まれてくるべきではなかったのだ。
が、そうは言っても、私は生まれてしまった。生まれてしまったものは仕方がない。現状で死のうとも思わない。死とは敗北である。私の人生とはいつもこうだ。苦しいものを与える誰かがいて、そこから逃げればその誰かが嘲笑う。いつもそうやって私は貶められる。人生とて同じ。人生とは苦しみ。しかしそこから逃げることは許されない。きっと誰かを悦にさせる。それは敗北である。故に私は逃げない。生きるしか無い。この苦しみを耐えるのだ。何のために?
私はきっと何者にも成れない。作家になることもない。絵の一枚すら描けない。誰かの心を動かすこともない。きっと言い訳を並び立てて、何もしない。どうせあと数ヶ月で私の命は終わりだ。何故か。あと数ヶ月で、私は思考を放棄する。
今はこう炎を立てているが、私には視える。きっと一年も経てば、私は労働を愛する。労働は思考から我々を解放してくれるのだから。何を考えずとも、タスクは山のように積まれる。それをこなしていけば、数十年と時は経つ。自分が何かの役に立っている。そういう錯覚すら与えてくれる。アヘンである。労働は苦しみを奪うのだ。
そうして私は死ぬ。労働は死。これは比喩でも何でも無い。人間は思考を諦めた時点で人間でなくなる。死ぬのだ。そして恐らく、私は労働というアヘンに抗うほど、強くない。きっと私もまた死んでしまう。
ああ、無価値な人生だった。誰かの支えになることもなく。誰かを救うこともなく。「君が居てくれたから」という言葉を掛けられることもなく。ただ睡魔に苛まれて、私はダラダラと生を繋ぐ。まさしくゾンビである。労働に支配されたゾンビ。そしていつか、明日か数十日後か数十年後か、独り寂しく無に帰すのだ。
私に才能があれば。私に力があれば。私が強くあれば。死なずに済んだのかも。ないものねだり。下らない。
敗北を恐れて、私はきっとずっと生き永らえる。そしてその先に待つのは、悔恨と孤独。
だから生まれてくるべきではなかったのだ。
もう駄目だ。何もしようとも自分の非才さがただ更新されていく。どうしろというのか、この私に。それでも生きろというのか。いつか無に帰すのに? それは無慈悲だ。人道に悖る行為だ。
誰か私を不老不死にしてくれ。不老不死にしてくれれば、敗北など訪れない。私は永遠に、勝者で居られるのに。
くそったれ。すべて沈んでしまえ。熱線に焼かれて壊れてしまえ。俺には関係ない。
そうだ。今わかった。
俺はただ、誰かに必要とされたかった。誰かに、そばにいてほしかった。でも普通に生きていて叶うことはないと悟った。誰も俺に興味がなかった。気づいてしまった。だから表現に手を出したんだ。でも、才がなかった。
だからこの先、誰にも必要とされない。終わりだ、終わり。
店じまいだ。
こうやって、有る事無い事すべてぶちまけて平静とモチヴェーションを保つのが私なりのメンタルケアである。
非才を認めて諦めるのも、まあそれはそれで敗北である。不老不死は言うまでもなく、全知全能にもなりたい。強欲なのだ。