まどどブログ

普通の二十代前半男性が、夢を見るか、破滅するか。そんな人生ドキドキギャンブルの行く末を提供しています。

2022.02.16(残44日) 悔いて死ぬこと

2022.02.16

あと44日

 

 昨日の私を笑いなどしない。確かに昨日述べたことは包み隠さないすべてなのだ。私は誰かに必要とされたいし、私は非才だし、私は死を恐れている。それがすべて。

 

  • 悔いて死ぬこと

 どうにも最近、労働を意識する機会が増えた。家族一同の話題が私の就職に移りつつあるのだ。私としては見ていなくない。自身の死の話など、誰がされて嬉しいものか。それでも、現実は待ってくれない。死は刻一刻と近づいている。

 昨日、入浴中。労働のことを考えていた。もう4/1までは僅かな時間しか残されていない。それに、何も労働関連のことは4/1から開始するわけでもない。スーツの新調であったり、引っ越しの準備であったり、多くはもう目の前にまで押し寄せている。避けられない。翻って私はいま、何をしているか。結局のところ、私は何もせずに、この学生生活を終える。ずっと遊んで、ずっと寝て、幸せのまま幕を下ろすのだ。

 ああ、結局私は何も出来ずに終わっていくんだな。そう諦観に浸っていた。

 そのとき、声が聴こえた。聴覚として捉えられたものではない。脳内に響き渡る、これはきっと私の作り出している声なんだろう、そう自覚できる声。

「お前はいったい、この一年半、何をしていたんだ?」

「何も出来ないというが、お前は何かしていたのか?」

「お前は表現に魂を捧げたのか?」

「お前は寝て過ごしただけでないか?」

「お前が何も出来ないのは、何もしていないからではないのか?」

「何もしていないのだから、何も成さずに死んでいくのは必然でないのか?」

「お前の人生は、一体何だったのか」

 たぶん、自己意識の表出であったのだと思う。ずっと思っていたことだった。それでも、これほど明確の言葉に表れたのは初めてであった。人間の死の意義を、少しばかり理解した気がする。人間は死期を前にして、ようやく悟るのだ。

 率直に言おう。怖かった。悔恨の中に死んでいく者が居るという。その感覚は、きっとこのようなものだ。怖いのだ。

 ふと気づけば、暗い世界に居る。そこには誰もいない。ただ自身の姿と、声と、息と、心音だけが響き渡る。薄暗い世界。死という動かしようのない終焉が見える。果ては暗い。ただ何もない。音すらしない。ブラックホールが最も近しいかもしれない。しかし、ブラックホールというのはその強い重力によって、周縁に光を纏う。死という終焉には、それすらもない。ただ奥底のない黒だけが在る。

 その終焉を前にして、初めて足跡を、己の影を振り返る。そこに何もない。何もない。焼け野原ですらない。ただ、後ろにもどこまでも真っ黒な暗闇が、どこまでも続いている。そして、声が聴こえる。

「何も残ってないじゃあないか」

「お前の人生は、いったい何だったのだ?」

 そして初めて、後悔する。俺は何をしていたんだ。もっと何かすることがあったんでないのか。自身の怠惰、自身の愚鈍、それを悔やむ。

 後悔の発現。それを合図に、足元は滑り出して、終焉へと真の闇に、即座に突き進んでいく。あたかもベルトコンベアが設置されているかのように、無限の無へと引き寄せられていくのだ。悔いと嘆きと呪いと、それが合わさって、苦しみとなって、世界は閉じる。

 悔いて死ぬとは、きっとこういうことだ。底なしの闇に覆われてしまうのだ。私はそれを教えられた。天啓であろうか。啓示であろうか。ご加護であろうか。

 だからもう悔いるような生き様は見せられない。いや、出来ない。こんなに怖いとは思わなかった。底なしの闇に襲われて、底なしの闇に嘲笑われて、そのまま底なしの闇に引かれて果てる。それがこんなに怖いなんて、知らなかった。もはや悔いの残るような生き方など出来ない。

 

●昨日の記事に加えて

 そういえば、昨日の記事に付け加えたい。

 誰にも必要とされない。それはもはや、避けがたいように思われる。私の場合、性格、言動、容姿、ともにあまり人に好かれるようなものでもない。

 それに、恐らく彼の他に、誰かを愛する可能性というのは現状で低い。どうにも忘れられない。忘れようとしても忘れられないし、特に意識しないような場合でもある瞬間に思い出してしまう。誰かに興味を持ったところで、なんだか彼と比較してしまって覚める。恋患いでは断じて無い。その局面は昔に過ぎ去っている。であれば、何か。

 恐らく彼は本能の求める部類の者であった。合理的な価値判断を抜きにして、ただ存在として欲していたのだと思う。そして彼と成就する可能性が無い以上、本能を満たす存在は現時点で存在しない。

 そもそも恋愛とは合理的に考えれば、莫大なコストを払うのだから、それなりのベネフィットが有って当然である。そのベネフィットとは、合理によって支配されない快楽、即ち盲目のことである。盲目的で無いのなら、恋愛関係を構築する必要性に乏しい。自身によって代替できる以上、金と時間の無駄である。隣に居るだけで幸せ、顔を見るだけで幸せ、そういう狂気こそ、恋愛の醍醐味なのだ。

 上記から、現状で彼以外に盲目的である人間が存在しない以上、誰かに必要とされる可能性、そのような関係性を他者と構築する可能性が低い。自業自得っちゃ自業自得かもしれないが、そもそも私を盲目に出来ない人間サイドにも問題はある。

 だったら、もう自分で自分を必要とする他ないのだ。表現が自分のためだけに在るというのは、そういう意味ではなかったのか。