まどどブログ

普通の二十代前半男性が、夢を見るか、破滅するか。そんな人生ドキドキギャンブルの行く末を提供しています。

2022.02.20(残40日) 作品への評価と国恥記念日について

2022.02.20

あと40日

 

 今日はおよそ数日ぶりに朝を怠惰に過ごしてしまった。低気圧のせいであろうか。低気圧による体調不良の類というのは、その大半がノシーボ効果のようなものであると思うのだが、真偽の程は如何に。

 

  • 作品とは作品であり、それ以外の何物でもない

 さて、怠惰の中でリオ・オリンピックの閉会式を視聴していた。もう幾度繰り返したことであろうか。何回、いや何十回とひたすら眺めては、かの惨状を思い起こされて涙にくれる。それの繰り返しである。

 コメント欄は概ねリオを惜しみ恥辱を憎む、そういうものに溢れているのだが、かの国辱に対してなんと慈悲深いことか、理解を示す者もいる。「制限の中で努力した」だとか「ゴタゴタで関係者が尽力した」だとか、おお、主の如く愛を見せている、そんな者が一定数存在する。

 そういえば、昨今のBALMUDA Phoneについても同様のことを述べている者が在った。関係者の努力の結果なのだから批判が過ぎるのはどうか、など。

 ああ、よくいるのだろうか。作品——ここでは商流に回る製品を含む——には大勢の関係者が背後に隠れている。だからその作品の批判は関係者の批判にも繋がり、望ましくない。故に、それに対する一定の配慮を見せなければならない。そういう主張のやさしい人間が。

 単刀直入に言えば、これらはすべて偽善である。作品とは作品であり、それ以外の何物でもない。関係者は作品において死んでいる。そもそも生すらも許されていない。作品とは、作品によって独立して存在しており、それによってのみ評価されること以外ありえない。関係者のことなど考える必要すら無いし、そもそも関係者など作品から見れば存在しない。

 もはや自明のことではなかろうか。例えば自身の携帯電話を操作するとき、常に関係者のことを考え、感謝しながら指を動かしているのか。小説に触れたとき、常に作者の顔や苦労に想いを馳せながら読むか。何かセレモニーを観ているとき、常に演出や照明などに従事する人間について考えるか。大抵の人間にとって、これらへの解答は”No”であろう。我々には作品を作品そのものとして享受している側面がどこかしらに存在している。であれば、批判についても作品に対してすべきであろう。それに不純な、即ち常時意識していないような要素を付与するのは、道理に合わない。

 それに、人道的視点に立っても、無意味に関係者への配慮を見せるのはその関係者の利益にならない。何故か。関係者は作品に生きないが、作品の創造手ではあるから。厳しい批判によって、その関係者は受難を経て、高品質な創造を実現させる。批判の手を無駄に緩めることはその受難を軽減させることに繋がり、結果として創造手としての役割を損なう。

 以上より、関係者への配慮というのは二重の意味で偽善である。そもそも人間への同情というのは多かれ少なかれ偽善の色が濃いような気もするのだが、今日はどうにも頭がぼんやりとしていて思考がまとまらないので、また別の機会に。

 

 さて、私はこのように考えるので、作品は作品として評価する。

 2020東京オリンピックの開閉会式は、引き継ぎ式という瑠璃を粉々に砕いて踏みしだいて脱糞して我々に食わせた、そういうものである。単に出来が悪い、という評価に留まらない。かの美しい閉会式という賢帝を陵辱し、亡き者とし、僭称した挙げ句に失政を繰り返し、狂気に陥り、結果として帝位そのものが消失した、その罪深さを持つ。

 かの男は我々日本国民の尊厳を深く犯した。賢帝の殺害という重罪によって。かの賢帝は日本という国を深く愛し、理解し、それを美しく内外に知らしめていた。かの男はそれすらも忌み嫌い、壊し、結果として己の排泄物をこれ見よがしに展示した。文化を著しく侮辱した。

 故に国賊である。国恥として広く認定されなければならない。国恥記念日は一つが良い。特に多くの者を絶望へと貶めた日。開会式の日。7月23日を、国恥記念日として制定しよう。

 忘れるな。決して国恥を我々は忘れられない。忘れることを許されない。コロナだったからまあ仕方ないよね。そのような美化は決して許されない。免罪など許されない。文化を犯したのだ、かの男は。どうして許されようか。罪は永遠に残り続け、我々はそれを永遠に憎む。

 

  • 補記:作品と自己承認

 そういえば、SNSで収穫できる無名な表現者で稀に「誰も私の作品を観てくれない、私に興味なんて無いんだ」などと嘆いているのが見受けられるが、何と言えば良いか、もう表現者を辞したほうがいい。表現とは、世界の創造であり、その世界に人々を誘うことである。決して自分自身への評価を求めるものであってはならない。

 仮に自己そのものに対する承認欲求を満たしたいのであれば、ごく普通のサラリーマンを経験するのが適している。人間関係という檻に閉じ込もることを可能とするので、他者に媚び諂ってさえいれば承認欲求はいとも容易く充填される。お似合いではないだろうか。

 承認欲求といえば芸能人が考えられるものの、恐らく、向いていないであろう。このように嘆く人間というのは大抵自身を愛しているからこそ、本来愛されるべき自己が愛されていないことに嘆くのである。求められるキャラクターを演じるのには極めて不適格であるように思われる。