2022.02.28
あと32日
閉廷おじさんについて述べる。弱卒ながら申せば私が人生で目撃したあらゆるギャグよりも突出して面白い。ああいう脚本を執筆できるようになりたい。是非とも担当した脚本家にお会いしたいものである。
- 軍拡という避け難い泡沫
かの野蛮国家は未だ進撃を止めずキエフを迫害し、ハリコフを執拗に攻撃し、クリミア=ドネツク回廊を完成させんとしている。いいから一刻も早く撤退しろ。
かの蛮行によって、世界は軍拡からもはや逃れられない。これは自明のことである。恐らくこの戦乱の結末は、欧米諸国が直接——即ち軍事的な——支援を行わない限り、ウクライナの敗北である。ロシアはウクライナを属国化し、プーチン体制は多少の揺らぎを経て再度安定する。そのような状況で、ロシアという野蛮国家は保存される。
その結果、勝手に他国の主権を否定して侵略する、飢えて狂ったケダモノに世界は対峙する。そのケダモノには言葉など通じない。対話など何ら意味がない。勝手に他国を否定して侵攻する狂気に何が届こうか。言葉が意味を持たないのであれば、自然状態として暴力に頼らざるを得ない。つまり武力、軍事である。故に世界は軍拡に包まれる。現に、既にドイツは軍事増強を決定したようだ。
日本とて例外ではない。我々は残念ながら、ウクライナと同様、野蛮国家の隣国に位置しているのだ。これまで南西にシフトしていた国防力は大幅な見直しを強いられる。防衛大綱や中期防衛力整備計画など、恐らく多くの労力が必要とされるだろう。そして国民にも軍拡を審判する機会が必ず訪れる。まずは改憲だろうか。知らんけど。
- 義憤
ところで義憤というのは豪華な感情である。義のために憤る。なんと響く言葉であろうか。金のように煌めいていてゴージャスである。しかし、その中身は極めて醜い。まるで街を金箔ですべて装飾したかのように豪華で醜い。何故か。義という主観によって、理性を失うから。
義憤というのは、それはそれは心地良い。義という「正しい」もののために怒りを顕にすることが出来る。「正しさ」に寄り添うことこそ、人間の本懐である。義憤は我々をその自身に酩酊させる。
そして、酩酊というのは真に明瞭な判断を失う。少量の飲酒でも運転を禁止されるのは何故か。たった一杯でも視野が狭まり、自己が大きく感じられ、正常な判断力を失うためである。義憤も同様である。
そもそも義というものは主観である。何が正しく、何が正しくないか、それは自身の持つ価値観に照らし合わせて決定される。故に義とは主観である。つまり義憤というのは「主観のために怒るもの」と解釈できる。これを分解して考える。主観への依存というのは客観を廃棄する行為であり、怒りというのは合理的な思考でなく野性的な情動である。
つまり、根本的に義憤というのは主観に頼って情動に走る愚かな行為である。これが市民権を持つということは、単に義、つまり「正しさ」が広く共有されていること以上のものを意味しない。愚かしい行為であることに何ら変わりはない。
- 義憤と軍拡
さて、此度の蛮行で、日本人の多くはロシアに多かれ少なかれ義憤を抱いたことであると思う。ロシアを全面的に庇う者は思考回路に問題を持つという自覚を持ったほうが良い。
ここで一つ提言したい。国益に関する考慮と義憤とは、決別しなければならない。例え隣国がいくら野蛮で、ウクライナを徹底的に迫害していて、それに対して憤りを覚えたとしても、それをそのまま政策決定に反映することなど許されない。我々は民主主義国家である。我々の愚かな決定は少なからず国家の決定に反映される。
何も軍拡をするな、改憲をするな、と言っているのではない。そんなことは私に関係ない。興味がない。どうでもいい。私の効用を低減させない限り、好きにすれば良い。
ただ、単なる怒りや恐怖で今後を決定していく狂気へと陥ることが無いか、それだけは注視している。例えば関東軍の狼藉を許した戦前に戻ることはないのか。国際秩序も無視して、ただ他国への恐怖と義憤だけを頼りに合理的な思考を国民が放棄して突き進むことはないか。そのような状態に復古して仕舞えば、また戦乱が待っている。
それは困る。不老不死を得てのんびり狼でも愛でて時間を溶かすのが私の目標なのだ。擾乱が望ましいとは言えない。だから皆の者は気をつけてほしい。決して義憤に駆られて拙速な決定を求めることが無いよう。令和の満州事変を避けたいのであれば、あくまで義憤から離れること。
今日のは駄目だ。義憤に駆られた結果としてどのようなルートを国民が選ぶのか、それを私は知らない。興味がないのでどうでもいい。やはり興味のないトピックについて論じるのは難しい。
ああ、簡潔に一言だけ。私はただ、平和で必要に豊かならばそれでいいのだ。