2022.03.07
あと25日
何があと25日だ。私は知っている。きっと4月1日になれば、またあと365日へと回復するんだろう。
うう、頭が痛い。今日はコーヒーを飲むべき日であったのに、飲めなかった。ミルクが無ければ私はコーヒーを摂取できない。何もミルクコーヒーにしたい、と述べているのではない。ミルクコーヒーも美味であるが、ブラックを私は好む。
では何か。それはこのように。まずブラックを嗜み、後にミルクを口に注ぐ。そのようにすればコーヒーの苦味とミルクの甘味とを共に味わうことが出来る。これぞコーヒーの醍醐味である。いずれかの欠けるものなど、「コーヒーを飲す」という行為に欠ける。儀式としてそれはコーヒーを見ていない。分かるか。
- 人生に関する思案の指標
ここ数日、人生というものについて考えている。本来であれば小説の題材として自身の人生観でも使おうか、などと思っていたが、ふと思ってみれば、私は人生について殆ど真摯に向き合ったことのない、という事実に気づいた。将来の展望が非常に曖昧なのだ。故に考えざるを得ない。
人生について模索する上で指標をいくつか。一つ、すべて疑うこと。先入観に囚われやすい人種というのが私である。先入観が入り込んでいて当たり前、そのように捉えるべきである。一つ、必ず事例と結合させて思考を進めること。私は思い込むも激しい。故に「〜べき」というものを真実であると信じてしまう傾向にすら在る。この場合、抽象論で思索するのは適切ではない。必ず過去の事例と照合する。
さて、人生について考え直そう。
- 人生の土台
まず前提として、私はどのように生きていくべきか。いや、正確に言えばどのように生きていくのが快いか。これについて考えよう。土台無くして花は咲かぬから。私という人間はどうにも具体に目を割きがちなのだ。反省せねば。
現状で二通り、考えている。一つ、生得的な趣味に生きること。私の場合、これは紛れもなく睡眠である。寝ることはあらゆる快楽を超越している。思い込む余地すら無い。「睡眠が好きだ」という自己暗示だけで、十二時間寝続ける。数日間布団の上でくつろぐ。有り得ない。私は疑う余地なく寝ることが大好きだ。そして、睡眠によって一生を過ごすことなど出来ない。衣食住を維持するだけでコストは発生するのだから。悲しいね。
それが叶わぬので、次。自身の信じることに生きること。私の性格として、自分の納得できるもの、理解できるものに追従する傾向に在る。本当に?
中高時代が輝いて見えたのは何故か。大学時代が苦しく思えたのは何故か。創作に興味を持ちつつも長続きしないのは何故か(これは現状に限って睡魔の赴くまま行動できる環境に置かれているからでもある)。彼と共に在らんと願うあまり、恋患いに苦しみ続けたのは何故か。労働に対して——アルバイトすら除かれず——驚くほどの嫌悪感を抱くのは何故か。これをすべて包含するものは一体何か。
もう少し、思惟する必要がありそうだ。
- 補記:羊と山羊について
聖書を読破した身であるのに、恥ずかしながら羊と山羊との区別が付いていなかった。『マタイによる受難曲』25.31-46に記載のある通りである。また皮肉レベルが1上がった。「羊」という批判を用いるような者は陰キャキモオタクくらいしか居ないだろうけど。
それにしても、聖書はもう一度読み直さなければなるまいな。
2022.03.08追記
人生の土台における二点目について、恐らく、私の意志を尊重してくれる環境に生きるというのが大きいように思える。詳しくはまた後日。