まどどブログ

普通の男子大学生が、有名作家になるか、破滅するか。そんな人生ドキドキギャンブルの行く末を提供しています。

2022.03.09(残23日) 生き方について③ / 強迫観念からの脱出について

2022.03.09

あと23日

 

 眠い。眠すぎる。眠いときは寝るべきか。寝ないべきか。

 寝るのかい。寝ないのかい。どっちなんだい!!!!!!!!!!!!!!

 パワー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

 私はよく「おじさん」だとか「中身五十路」だとか「お父さん」だとかいう類の中傷を受ける。要は「老けている」と言いたいらしい。有り得ないことだ。私は子供、ガキそのものである。

 

  • 人生を考える上での有用な資料

 今日は音楽の気分なので手短に。

 私というのは繰り返すようだが強迫観念に囚われる里の出身らしく、「私はこれをしなければならない」という呪縛を本気で信じ込む。そして私は逆張りでもある。これが重なるとどうなるか。「しなければならない」という強迫観念に対する逆張りですべて放棄する現象が発生する。最悪だ。

 ところで昨日、私は疲れ果てていた。本当は人生について考えるべきなのだが、もはや難しいことを考える体力すら無い。そのとき、ふと「絵でも描くか」と思ったのだ。実際、描いた。私はこれに天啓を見出した。

 今まで絵——そして創作というのはあくまで生を繋ぐ術としての義務に過ぎなかった。「しなければならない」ものの一つでしか無かったのだ。しかし昨日の時点で、自然な欲求として創作は在った。これが新鮮であった。私は創作に楽しさを見出していた。

 些細なことかもしれない。それでも私には救いであった。高校を卒業して以来、何一つ生きる意義を見出だせない人生において、楽しさが蘇ったのだから。「生きなければならない」この先数十年が、もしかしたら「生きたい」数十年へと変化するかもしれない。その可能性がまだ有ることに、私は極めて安堵した。

 私は強迫観念持ちの逆張りなので、「しなければならない」と思い込むと何もしないことが多い。それにクオリティも著しく低下する。なるべく「したい」ことに生きていたい。創作はもしかしたら、その一つに加わるかもしれない。睡眠とどちらが強いのだろうか。

 

  • 強迫観念を避けよう

 また、私はもう過去の自分を責めないようにしようと思う。過去の自分を糾弾することこそ、強迫観念の一種である。もはや仕方ない。そうする他なかったからそうしたのだ。

 例えばこの二年間、結局何も成さずに終わったのは、そうするしかなかったから。これを糾弾して「俺は変わらなければならない、怠惰に生きることは許さない」なんて強迫観念に縛られてしまっては、結局逆張りが発動して何も出来ずに終わる。そしてまたそれを責める。負のスパイラル。救いようがない。

 私が恐れるべきは強迫観念である。強迫観念は即ち無を意味する。故に「しなければならない」と自分を縛ることだけは必ず避けたい。

 だからこう思うことにした。何もかも運命である。どうせどのように動こうとも後悔は残る。だから自分を責めることはしない。「したい」ことに忠実に。

 一抹の不安を残しつつ、とりあえずこう思っておくことにする。

 

  • 「したい」ことと「している」ことは違う

 が、ここで一つ注意したい。「したい」ことには必ず「したい」理由がある。理由なきものはただ「している」だけに過ぎない。「したい」ことと「している」ことは違う。

 例えばSNSをずっと見続けるのは「したい」ことだろうか。意味もなく動画をずっと視聴するのは「したい」ことだろうか。違う。ただ手持ち無沙汰で、なんとなく見ているからに過ぎない。それをするなら何もしない方がずっとマシである。

 「したい」という欲求は心の中に確実に根を張っている。それに従うのは大いに結構。中高時代だってそうだったはずだ。しかし今の私には「している」ことが多すぎる。動画もSNSも、情報収集やメモとして使いたい。しかし不必要に見つめ続けるのは心を殺す。

 これは心の声に適っているのか。それは常に思考しなければならない。

 

 何事も思考が肝要だ。すべてに対して思考する。それこそ、人生をクリアする要のように思われる。