まどどブログ

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2022.03.11(残21日) 陰謀論者の「目覚め」について

2022.03.11

あと21日

 

 鶯の訪れを以ていよいよ春と為す、か。無情なものである。冬のほうが好ましい。

 

 今日も限りなく下世話な話題でお茶を濁したい。春眠暁どころか黄昏を覚えず、なのだ。

 陰謀論者について私は一つ疑問に思う。なぜ彼らは「目覚めて」しまうのか?

 陰謀論ウォッチングに勤しんでいると、以下のような台詞も嫌というほど見かける。

「◯◯さんのおかげで目覚められました!」

「DSの企み、バレちゃった。」

「ニュースを鵜呑みにするコロナ脳の愚民ども。」

「騙されている人たち、目覚めて!」

 つまり、定説というのは闇側の陰謀であって、人々を騙すものである。我々の中で共有されている情報こそ真に正しい。そう言いたいわけだ。だが、私はずっと思っている。定説を誤りで詐欺だと決めつけておいて、なぜ「新情報」を疑問無く受け入れられるのか。そう、少なくとも私が鑑賞する限り、彼らの中に「新情報」を疑う動きは見受けられない。ゼロとも言って良い。テスラ缶など好例であろう。それが彼らの浅ましさである。

 そもそも人間は他者を騙す生き物である。就職活動を経験している者であれば容易に想像できよう。如何に自身のスペックを誇張したことか。また企業も労働環境の素晴らしさを如何に誇張していることか。大人など、嘘に固められて生きているようなものである。大人に限らない。子供であっても、テストの点数を誤魔化そうとする。悪いことをしても「知らない」と言い張る。つまり誰でも嘘を吐いて人を騙す余地は存在する。

 故に定説であろうと「新情報」であろうと、誰かが私を騙している可能性というのは等しく存在する。それで定説ばかりを糾弾し、「新情報」を盲信するのは、やはり愚かとしか言いようがない。単に鵜呑みにしているのだ。それも定説を疑った上で。もはや救いようがない。

 つまり、陰謀論者というのは「目覚めて」などいない。単に思考力の乏しい逆張りである。

「定説はなんか嫌いだ。あ、「新情報」がある。なんか分かりやすい。信じちゃおう。定説は陰謀だ。」

 そういう短絡的な受容でしか無い。なぜ「新情報」を疑わないのか。定説を否定しておいて「新情報」は鵜呑みにするのか。なぜ偏るのか。逆張りだからだろう。社会の対岸に位置したいだけだろう。それすら自覚できないのなら、自覚する脳が無いのなら、最初から何も考えない方が良い。身のためである。受難なき者に救いなどない。

 

 ちなみに定説はなぜ広く受け入れられているのか。民衆が従順だから。多少は作用しているだろう。が、恐らくそれ以上に大きいのは、単に相互チェック機能が働いており、騙す余地を極限まで小さくしているから。

 少なくとも日本では、人を騙すこと、つまり矛盾を孕んだ定説を広めようとする運動は、なるべく制限されるように設定されている。のびのび国家でよかったね。