まどどブログ

普通の二十代前半男性が、夢を見るか、破滅するか。そんな人生ドキドキギャンブルの行く末を提供しています。

2022.03.14(残18日) 生き方について⑤ / 私の興味と熱情について

2022.03.14

あと18日

 

 雪を「銀世界」とはよく言ったものである。日光を反射して目も開けられない。

 ここで少し捻くれてみれば、私には雲居のようにも見える。仮にけぶりとなるのならば、我々の行き着く先とは恐らくこのようなものである。

 それにしても、矢張り旅行はすべきである。近場では駄目だ。画期的に環境を変化させなければ、刺激として有用に作用しない。あまりに馴染みが薄いので、ついつい食べすぎてしまうのは玉に瑕だが。

 つまらぬ話ではあるが、私の身体において筋肉が大きく存在感を放つものとなっていることに気づいた。現状では厚い脂肪の下に隠れているのだが、両手を高く挙げて腹部に力を込めたとき、薄っすらと腹筋と腹斜筋の分裂を確認できたのだ。よきかなよきかな。どうせ労働に身を移せば痩せるのだ。私はいずれキン肉マンとなることだろう。これだから筋トレはやめられない。

 

  • 私の興味と性質

 旅先でルーティーンに時間を費やすのもまた愚かしいことであるので、簡潔に。

 私は予てより「興味のないものに対峙した場合、明確に効率を落とす」という性質に悩まされてきた。では、そもそも私の興味を抱くものとは何か。それは以下のようなものである。

一、知的好奇心をくすぐるもの…読書や旅行全般、ゲームなど

一、ぼんやりと物思いに耽るようなもの…温泉や旅行(特に移動時)など

一、情趣に溢れているもの…星空や旅行(風景)など

一、細々と同様のことを繰り返すこと…日記、家計簿など

 それを踏まえて、なぜ効率が落ちるか。それは、恐らく「その事象に取り組む事由」が明示されていないがためであると思う。

 私の性質として、「なぜ」の理解できないものに対する本腰を入れた対処がどうにも難しいらしい。こればかりは性質としか表現しようのないものであるが、とにかく、こうなのだ。

 「なんで俺はこれに取り組んでいるんだろう」と気になってしまうと、どうにもそれが頭から離れない。何をしていても、その疑問がずっと頭から離れない。アルバイトや大学の組織において痛いほど問うた。俺はなぜこれに向き合っているのか。その答えをずっと探し続けてしまう。単に不器用なのだ。

 その点で、興味のある分野については取り組みやすい。「なぜ」が明確だから。私が面白いと思うから向き合うのだ。それに何ら矛盾はない。そして興味のないものであっても、突き詰めて要因が判然としているのであれば、何も問題はない。

 しかし世の中の大半の事物はそうではない。「そういうものだから」という回答によってすべてが設計されている。私はこういうものに、上手に対応できるとは到底思えないわけだ。

 さて、労働はその最たるものである。なぜ働くか。金を稼ぐため。なぜ金を稼ぐか。生きるため。なぜ生きるか。それは明瞭でない。

 故に私は労働に対して懐疑的である。

 

  • 補記:中高時代の得意科目と不得意科目

 ちなみに中高時代、物理や数学に関しては不出来であった。理系科目というものは総じて突き詰めれば「そういうものだから」という押し付けが生じる。それに私は悩まされた。「なぜこの法則は成り立つのか」など考えて混乱して一日を終えるなど屡々。

 反面、古典や歴史は得意であった。これも不可思議なことである。文法など、突き詰めて——例えばなぜ「や」は「疑問」を現すのか——考えることも出来たはずだ。なぜ得意としたのか。

 たぶん、数式というものはすべて理論によって即ち説明できる、と過剰評価していた部分があったのだと思う。言葉や歴史というものは考えても仕方のない、というか「自然発生的だから」という解を自身の中に抱いていたのだが、理系科目についてはそうではなかった。「全部説明できるはずなのになんで省略されているんだ」という僅かな怒りさえ持っていた。若気の至り、と言う他無い。

 確かに自然科学というものは理論の蓄積である。しかしそれは先人たちが幾重にも積み上げた結果であって、すべてを突き詰めて考えることは一介の高校生に出来ない。歴史や古典が先人たちの努力の結晶であるのと同様に、自然科学もまた塵芥の山を形成している。我々はその頂上を眺めているに過ぎない。そのことに、弱冠十七歳の私は気づかなかった。

 残念。