2022.03.16
あと16日
この快い疲労感を久しく忘れていたものであった。それにしても真に楽しんだ旅というのは、終わりの悲壮感も幾分緩和されるらしい。目のくらむような現代に戻ってきたときというのは、どうにも広い絶望から抜け出せないものであったが。
- 旅行における感性の躍動
旅行とは一体何のためにあるか。以前私は二つ挙げたように思う。
一つは日常からの決別。疲れ切った現実から逃避することによって自身の精力を回復する、ということを意味する。そしてもう一つは非日常の体感。あらゆるものを食べて見て聴いて、五感を通して日常では決して得られることのない刺激を得る。
この二つを踏まえて私は「今の日常に何ら不満など無いし、刺激は作品から得られるので旅行の必要性に乏しい」と個人的に結論付けていた。それは誤りであった。作品によって得られる果実と五感を通して得られるそれは根本からして異なる。いくら作品を読もうとも、山高く見下ろす煌めく街明かり、瀑布の轟々と落つ飛沫、それらを感じることなど出来やしなかった。理性と感性は、如何なる手段を以てしても交わることがないのだ。感性が発揚されたからか知らず、創作意欲も著しく高まった。
そう、恥ずかしながら創作は理性のみによって為されるものではない、ということを私は気づいていなかった。感性の養生のためにも、旅行は不可欠なのである。
- 関所越えのすゝめ
つまり旅行とは非日常が良い。非日常なのだから、旅先というものは住まうものと決定的に異なるものを持ち合わせていなければならない。例えば東京に住んでいたとして、鬼怒川温泉に遊ぶのはどうか。不十分だ。東京の匂いが強すぎる。修善寺も望ましいとは言えない。徹底的に関を越えなければならない。関を越えることによって、見える世界は大きく変わる。
ちなみに、私にとっての関所は勿来らしい。勿来の関を越えてこそ、日常は去っていくのであった。