まどどブログ

普通の二十代前半男性が、夢を見るか、破滅するか。そんな人生ドキドキギャンブルの行く末を提供しています。

2022.03.19(残13日) コマーシャルと蛆虫について

2022.03.19

あと13日

 

 心地良く眠る。望ましいものを食す。それが私のメンタルヘルス

 それはそれとして、労働は滅ぼさなければならない。

 

  • コマーシャルの意義

 コマーシャルとは何か。なぜコマーシャルは必要とされるのか。販売促進のためである。企業の費用というのは利益に直結するものにのみ投下される。商品の購入を促進する、それによって売上を伸ばして利益にプラスの効果をもたらす、そのためだけにコマーシャルは作成される。

 故にコマーシャルですら、顧客のニーズに合致したような様式が採択される。顧客の求めるようなコマーシャルでなければ、商品に手を伸ばそう、商品を購入してみよう、という気にはならない。その時勢などを的確に抑えたものが、コマーシャルとしては相応しいのだ。

 ところで最近、どうにも悲壮感を煽るようなコマーシャルが頻繁に観測される。コロナだからだろうか。「今は会えないけど必ず……(泣)」だとか、「失われた青春だけど……(泣)」だとか、「同窓会やろうね……(泣)」だとか、お涙頂戴、我々の感傷に訴えかけてくる類のものである。私もまた、しみじみ感傷に浸るものだ。ああ日本もいよいよ没する刻を迎えたか、と。

 コマーシャルとは顧客の求めるものを映す。つまりこれが今、顧客、即ち我々日本人の求めているものだ。ただ「悲哀」の他に意味を持たないようなコマーシャルが世に蔓延る。それは我々が悲哀を求めているから。矮小な同情を求めているから。苦しいわたし。貧しいぼく。そういう可哀想な自身に対して寄り添ってくれるものを求めているから。だからこそ、寄り添ってくれるようなコマーシャルに深く興味を抱くのだ。

 このような国民の集う国というのが日本である。下向きで矮小で哀れで恐縮するような人間の集合体。このような国に何か希望はあろうか。何もない。ただ衰退が加速していくに過ぎない。

 何も没していくことを批判しているつもりはない。夕暮れが美しいように、セミの最期が儚いように、終わりには栄華と異なる魅力が有る。しかし、その衰退を加速させるものはどうだろう。亡きセミに群がる蛆虫は優雅だろうか。悲哀を司るコマーシャルもまた蛆虫である。

 ああ、残念なことだ。「ケンとメリーのスカイライン」も、「街の遊撃手」も、” FREEDOM-PROJECT” も、もはやすべて過去の産物である。過去とは一時点であり、現在と接点を持たない。