2022.03.25
あと7日
●魂の先に
そういえば、今後に関する考察について、このブログでは途切れてしまっていたような気がする。結論だけ述べたい。
私におけるこれからの人生とは、「イエスタデイ・ワンス・モア」である。童心をもう一度。あの未来が光で覆われていたときの高鳴りをもう一度。それが私の人生。
私はそもそも幼い。大人気ない。餓鬼と言っても差し支えない。しかし童心は失われつつある。そしてそれに強いストレスを覚える。故に童心を欲する。吸血鬼であり狼であり、そして私である。
その「イエスタデイ・ワンス・モア」において重要なものは、予測不可能性である。予測不可能なものこそ輝かしく夜を照らす。私は夜鷹ですらある。星を求めるのは当然であろう。
では、予測できないものとは何か。会社員か。断じて異なる。労働とは予測可能性のお煮付けである。では何か。現状では、恐らく創作である。創作とは私が避けてきたニュー・フロンティアである。ゴールド・ラッシュが巻き起こるのも無理はない。例え終着が荒野の砂漠であろうとも、アメリカン・ドリームは誰にも止められない。
無論、創作に限定する必要は無い。私の予想を凌駕する何かに巡り会えたのであれば、それでも構わない。目下のところ、難儀と乳化するのは創作なのだ。
●木の死に
故に私は創作に励む。どのように。とりあえず、四月一日を以て私は血を宣言する。労働は私と彼らの糸を切る。いや、彼らを殺しているのだろう。木は「木」となる。囁くことも涙することもなく、ただ平面に設置されていく。それをむしろ、呪いへと消化させる。私と木々との会話を阻害する労働を呪うのだ。その呪詛を、労働の幕間に仕立て上げる。必ず一日に進捗。労働を呪い殺すその日まで。血を以て解放に贖う。
何をするのか。絵か。小説か。どちらも、か。二兎追う者は一兎も得ず。そして私はイメージの人間である。まずは絵か。思い浮かぶ情景であれば、画力の不足は見受けられたとしても、描くことによって赦される。が、小説も捨てがたい。矢張り、二兎追う者は一兎も得ず。小説か。小説か?
決めた。メイン小説、息抜きに絵、という構図を完成させたい。それにしても、小説に手を出すたびに悪夢を見る。いや、それもまた血であるか。どうせ労働に何ら重きを置いていない私である。狼少年が狼そのものでも良いはずだ。とにかく、小説は夢にも侵食するので、精神的に大きな苦痛となる。それを絵で薄めたい。これで労働の呪詛を効率的に生産できる。
こうしよう。小説を仕立て上げる。が、当然書けない(肉体的疲労は関連せず単に思いつかない、憎悪から少し離れたところに座っている、など)ときもあるだろう。そういうときに絵は癒やしである。絵で癒やされよう。
いずれにせよ、労働を殺さなければならない。受難なき救いなど無い。磔にされようとも、血が私を贖う。それを私は四月一日から知る。
あなかしこ。これが私の結論である。血を吐いて倒れたならば、なお救われる。
今やるか。いいえ。今は残された生を——もはや奪われて久しいが——堪能するのであった。
どうせ何もやらない。そう思うか。私もそう思う。私よ、どうか私を裏切ってくれ。