まどどブログ

普通の男子大学生が、有名作家になるか、破滅するか。そんな人生ドキドキギャンブルの行く末を提供しています。

2022.03.27(残5日) 霊としての古典について

2022.03.27

あと5日

 

 もう戦争の話をするのは止めにしないか。敵国を憎むのも、与国を賛美するのも止めにしよう。何の得にもならない。結果はいずれ判明する。それでおしまい。歴史は俯瞰するからこそ面白いのである。当事者であるべきではない。

 

  • 霊としての古典

 私は古典を好む。何かと現代小説、現代論説からは手を離して、古典に結合してしまう。現代のものも興味深くはある。が、何か魅せられない。心ここにあらず、心身ともに引っ張られて現世から離れてしまうようなその浮遊感、離脱の趣が現代のものには感じられないのだ。矢張り書物というのは憂き世から浮くことこそに価値を持つ。その意味で、古典は私にとってのそれであり、面白くない世を面白くするための魔具である。

 さて、ではなぜ古典に心焦がれるか。恐らく、古典というのは霊を持っているからだと思う。我々はもはや世界が科学によって支配されているということを疑わない。何もかも言語と論理と仮説と実証によって成立する。明らかでないことなど少ないし、仮にヴェールに包まれて目隠しに遭っているようなものですら、いずれ科学がそのヴェールを剥ぎ取る。それを疑わない。つまり、理性の配する世界。我々は何もかも、理性によって世界を見ている。

 古典は違う。古典の世界は多かれ少なかれ、神の配する世界であった。原始、神は生きていた。神の息吹を人々は心から恐れていた。雷は神の鳴りであったし、隕石は主の怒りであった。彼らは何か「よくわからないもの」を「よくわからなくて怖いもの」をして世界を見ていた。そこには霊が在った。

 よく聞かれる言説として「霊や神は妄想の産物」「古代の未発達な文明における仮定」というものが有る。それは誤りである。確かに霊は先人の中に居た。先人たちは確かに霊を見聞きしていた。先人にとって霊とは事実だったのだ。

 これが私の古典を愛する所以である。私は霊の息吹に触れたいのだ。現代において霊はもはや儚い。現代に生きる宗教はあくまで心の拠り所であり、理性たる世界のオプションに過ぎない。霊は我々と隔絶されて、標本として仕置かれてしまった。標本に興味など無い。生きるものでなければ、誰も救えないのだ。

 

●創作について

 それはそうと、私は基礎が成っていない。正確に言えば、山も無くトンネルを掘ろうとしているらしい。また、私は苔になってしまったようだ。それについては明日触れようか。