まどどブログ

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2022.04.02(甲363日) 労働について⑤ / 連綿たる日常と労働の穢れについて

2022.04.02

 

 今日ここに私は決意する。労働を回避できるのであれば、あらゆる手段を講じる。労働を拒絶できるのであれば、どのような努力も惜しまない。嘘でも虚勢でも何でも使役する。善く清く正しく在るには、奴隷たる生を拒むには、どうしても欠かせないものなのだ。

 そうそう。労働への忌避を表明するたび、彼の肩を持つ者が現れる。彼らは決まって言う。「働く上で学ぶこと、楽しいこともたくさんある」。ああ、そうだ。確かに労働にも「達成感」や「充実感」は埋められているのかもしれない。それを発掘することに楽しみを覚えるのかもしれない。それは事実であろう。

 しかしそれは偽りのものである。愉しみはそんなところにない。それを忘れてしまっているに過ぎない。

 

  • はかなの泡沫

 私のいま置かれている状況から帰納されること。それは、何もかもすべて、例え死や戦争であったとしても、それは連綿たる日常の代替わりでしか無い、ということ。

 コロナ禍に突入して、はや二年。思い出してほしい。当初の我々は、マスクの常時着用に強く違和感を覚えていた。それが今や、皆服をまとうようにマスクを着用する。アルコホルによる頻繁な消毒など、コロナ以前には存在し得なかった。今や流れるようにアルコホルを手に塗りたくる。なぜか。日常が連綿と続いているから。以前の「日常」であれば見えないものでも、それが連綿と続き、定着する中で、いつの間にか新しい「日常」へと変貌を遂げる。日常とは可変であり、不可逆である。泡沫が消え移ろうように、人々の日常はその流れによって新たに浮き、固まる。そしてかつての日常は沈んで溶けて弾ける。ニュー・ノーマルとは何たる皮肉か。もはやオールド・ノーマルに戻る余地など無いのだ。「オールド・日常」は「ニュー・日常」へと禅譲し、消えてしまったのだから。

 ウクライナの戦争も同様であろう。かの野蛮国家は、結果として侵攻した。ウクライナの民草から見ればどうか。いつの間にか緊張が高まり、いつの間にか敵国軍が国境に集結し、いつの間にか越境し、いつの間にか火の雨に晒された。そしていつの間にか、防空壕や地下鉄駅での、ないし疎開先での日常が開始された。ハリコフでの日常は、キエフでの日常は、いつの間にかリヴィウでの日常に変化していたことであろう。あるいは、ロケット弾に晒される日々へと変化していたことであろう。そしてそれは恐らく、定着する。ロシアの失策によって、かの戦争は長期に渡ることが確定的となった。戦時生活は数年に及ぶかもしれない。そうすれば、きっとその生活は新たな泡沫として凍りつく。以前の、平和なウクライナは沈む。

 これが日常である。

 

  • 穢れの楽しみと

 翻って、ベクトルを内部へと向けたい。かの労働翼賛者どもの主張は、どうか。

 造作もない。かの狂信者は忘れているのだ。学生の頃の愉しさを。労働で得られる「達成感」「満足感」は、本来必要なものではない。満足に寝られて、欲を出すこともなく質素に生きて、好きなように本を読み、好きなように句を詠む。この幸いな時間において、果たして「お客様が喜んでくれた顔」「高い買い物をできること」「社会における貢献」は求められていたか。

 否。否。断じて否。有り得ない。言語道断。一刀両断。ふざけるなよ。それは穢らわしい楽しみである。肉体の喜びであり、肉体の快楽である。肉体が豊かになろうとも、精神が貧しくなれば、いったい何の価値があろうか。人間として、どうして生きていられようか。理性の退廃を、いったい誰が赦せようか。少なくとも、私は認めない。絶対に。

 清貧に、自己に浸ること。この右に出る者が居ようか。神の御子を凌駕する天使など居ようか。いとすさまじ。理性さえ富んでいれば、人間は人間で居られる。そこに金銭的豊かさなど必要ない。むしろ有害ですら在る。

 このことを誰しも忘れている。誰しも、労働とセックスを試みる者は誰しも、学生時代の閑さを忘れている。誰しも、音にかき乱されている。

 私は忘れない。仁和寺の静寂を忘れない。京が異国人で埋め尽くされる以前の、あの透き通る幽玄を忘れない。私もあのように生きていたい。そのためには、腐った社会など必要ない。不要だ。

 もしかしたら、創作の道では食えないかもしれない。生きるのにすら困ってしまうかもしれない。それでも構わない。理性さえ富んで仕舞えば、誰も私を支配できない。死して果てても、私の清廉だけは、とこしえに遺り続ける。

 そのためにも、作品を仕上げたいのだな、と強く思うのだ。

 

  • 補記

 ちなみに、ここで糾弾する愚者に貧者は含まれない。貧しい家庭に生まれ、食に事欠いて学生時代を移ろった者が社会人になれば、どうか。可処分所得の増加という観点で狂喜乱舞するであろう。この場合、私の学生時代とは状況の乖離が著しいので、議論すべきではない。

 幸いなるかな、清貧に触れる程度の財力は持ち合わせていたのだ。本すら買う金の無い者は、概して清貧に至ることもない。