2022.04.05
八色姓の叛逆
もう労働について触れたくない。私とて、何もこのブログは労働への呪詛を連ねるためのものとして設定しているわけではない。本当は、もっと緑について、木々について、溶岩について、語らっていたいのだ。でも。
もういやだ。こんな日々。今後数十年も続くというのか。朝起きて、通勤して、何のためかもわからぬ作業に大半を費やし、退勤し、帰宅し、栄養素を吸引して、夜の九時。そして殆ど何も手につかぬまま、脳に残る感性も殺したまま、床に就く。そして朝。朝起きて、通勤して、何のためかもわからぬ作業に大半を費やし。繰り返し。繰り返し。繰り返し。繰り返し。休止符を二回挟んで、また一から。
そして終わりなきダル・セーニョから解き放たれれば、我々はそのまま死ぬ。何も労働から解放されるのは慈悲や隣人愛に依るものではない。単に、人間としての耐用年数に達したのだ。
こんな日々。もういやだ。作家志望失格かもしれない。が、それでも言いたい。もういやだ。終わりなき螺旋の中に閉じ込められるのだ。霧立ち込める迷路に封じられるようなものだ。私は殺処分を享受すべく、これまで生きていたわけではない。
どうして、みな怒らずに要られる。どうして、みなこの境遇を受け入れる。どうして、諦観の名のもとに螺旋に自ら牢する。どうして。どうして。私には本当にわからない。理解できない。共感すら難しい。こんなの、狂っている。
もういやだ。私はまだ夢を見ていたい。自身の可能性を意味もなくつまむ、そんな子供で在り続けたい。大人になりたくない。現状で満足し、諦観に生を投棄するような、そんな大人には絶対になりたくない。私はまだ、夢を見ていたい。いや。夢を喰らっていたい。獏で在りたい。
誰か助けてくれ。いや、誰かの助けを求めるのがいけない。周りはみんな大人になってしまった。苦しみを苦しみとすら感じ得ない、そういう狂気に呑まれてしまった。子供なのは私だけだ。誰も私の声など届かない。「子供じみている」「大人になれ」。そんな雷にかき消されている。
子供なのは私だけだ。だから私が子供で在り続けなければならない。私が私という愚鈍で不器用で実直な、そんな子供の御守りをしなければならない。私だけだ。私の理解者は。
誰も信じてくれない。誰も私のことなど見やしない。無理もない。大人なのだから。そして皆、私を大人だと思っているのだから。無理もないが、それなら私は誰も見ない。誰も信じない。誰かに頼ることなどもない。私だけの力で、私は子供の殻にうずくまる。