まどどブログ

普通の男子大学生が、有名作家になるか、破滅するか。そんな人生ドキドキギャンブルの行く末を提供しています。

2022.04.07 表現と共感について Part2

2022.04.07

 

 言うまでもないことやもしれぬが、念のため。

 私は法令に定められた従業員の事項をすべて遵守している。ここで記載しているものは、法令等を逸脱しない程度のレジスタンスである。故に、何ら問題ないのだ。私は労働契約に従順な猿である。それでも、猿が湯浴みに揺れることもあろう。そういうものだ。それすら認められないのであれば、真に奴隷労働であろう。

 奴隷をお望みなのであるならば、また別のこと。

 

  • 共感、共感

 なぜ、表現とは成立するのであろうか。なぜ、人々は作品に触れるのか。なぜ、人々は和歌に心動かされるのか。以前も述べたような気がする。これはきっと、共感である。

 例えば、以下の和歌。

 

 天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも

 

 名歌である。望郷の念と、月の端麗さと、唐の雄大さと、山の優しさ。これが詰まった一首である。

 が、ここで考えよう。なぜ我々はこれに望郷の念をそそられるのか。それは、春日が彼の故郷であることを知っているから。知らなければ、春日や三笠の山は単なる景勝地として捉えるかもしれない。春日がふるさとであると認知しているので、この歌は望郷として成立するのである。

 もっと言おうか。なぜ我々は月の閑けさを覚えるのか。これは月を観ているから。仮に、生涯暁に起き黄昏に眠る者が居たとしよう。それにこの和歌を聴かせたとする。彼はこれに、月を見るだろうか。山の上に冷たく——ないし鋭く——光る月のことを思い浮かべて、その安寧に心預けるだろうか。いいえ。絶対に有り得ない。仮に月を情報として習得していたとしても、月を観たことがなければ、その切なさも、畏さも、きっと感じ得ない。この和歌において作用している月の効果は完全に失われるのだ。

 簡潔に言おう。つまり表現とは、共感の集合体である。ここでの共感とは、何か他者の考えるものに対して納得し同意する、という普遍的な定義ではない。イメージの共有である。イメージ——風景や景色、色、匂い、あるいは価値観——を共有してこそ、表現とは表現として世に放たれるのである。

 特に、和歌や俳句、短歌。これらは字数の限られている分、各々の中に持つイメージに依存せざるを得ない。例えば

 夏草や 兵どもが 夢の跡

というのも、夏草生い茂る景色がどのようなものか、それを認識できて始めて意味を持つのだ。ここで夏草を見て「丸の内に生うビルヂング群」を連想してしまえば、もはや情趣は完全に破壊される。共感こそ要なのだ。

 小説とて、ある登場人物に感情移入するのは、価値観というイメージを共有しているから。世界観に引き込まれるのは、興味ないし色というイメージを共有しているから。これもまた、共感である。

 共感こそ表現である、と言っても良いかもしれない。共感なき羅列は、単なる線の結晶でしかないのだ。

 

 そして私の現状で最も大きな壁がこれである。慎ましきかな、私は共感が苦手だ。イメージの共有に成功した試しがない。イメージは常に行き違う。寄り道して戻ってくることすらある。

 そして、苦手なものは意識して対処しなければならない。つまり課題というわけだ。