まどどブログ

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2022.04.10 不条理と不如意について

2022.04.10

青空の澄んだ色は

 

 この世は見事なほどに不条理によって固められている。

 不条理そのものである。そもそも、水が零下、氷に変貌することすら、不条理である。氷になって仕舞えば、我々の飲することは叶わないではないか。そんな冷たいものを口にすれば、たちまち我々の身体が変調を来す、だって? ならばそれも不条理である。そもそも温度の極度に低いものを摂取できない、それこそ不条理である。我々は本来、何もかも食するべきなのだ。求めるものは皆、求められるべきであり、また求めに応じるべきなのだ。例えば冬山で遭難しようとも、周囲の水は氷とならずに水になり、我々に飲され、そして我々は生き永らえるべきなのだ。それが魂の求めることなのだから。

 そう、我々のような恒温動物は、体温を極度に低下させれば死ぬ。眠るように、ないし苦痛を伴って、ないし猛烈な眠気に包まれて。ともかく、我々の肉体は活動を停止し、我々の魂はどこかへと霧散して儚げに鳴く。この世に落ちて、在る。この事実は、遠く過去のものとなり、やがて泡のごとく消え失せる。これが死。我々は生まれ、やがて消える。消えるために在る。これが死の示すところである。これが不条理でなくて、なんであろうか。

 不条理とはつまり、不如意である。我々の意識、我々の魂。これに逆らうものは皆、不如意であり、不条理である。では、私にとっての不条理とは何か。

 私は善たる者である。つまり、悪たるものはすべて、不条理である。虐殺が肯定されるのと、校内暴力が黙認されるのと、家庭内暴力を働いた者が赦されるのと、労働と、死と、凝固。これらはすべて同じである。無害にゆっくりと永らえる。それが私の善である。その対極に位置するものは、すべて悪であり、不条理である。そして不条理は赦されるべきではない。不条理は、徹底的に排除されなければならない。

 これが私の専ら考えることである。休日に。愛らしいではないか。