まどどブログ

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2022.04.11 練炭の大人について

2022.04.11

 

 あゝ、器用な生物になりたいものだ。

 例えば在宅勤務の最中に掃除機をかけられるような人とか。

 例えばオンライン講義のノートを取りつつ、絵もまた同時に仕上げられるような人とか。

 例えばラジオの中身に注意を払いつつ、淡々と勉学に意識を傾けられるような人とか。

 そういう人に、私もなりたいものであった。私は生真面目なのだ。一つのことにしか注力できない。眼前のことで精一杯で、そのことだけにひたむきに取り組む。同時に二つ以上のものに対して注意を払うことが出来ない。

 良くも悪くも、私は生真面目なのだ。

 生真面目。なんと良い言葉か。単に不器用なだけなのに。

 

  •  

 誰だったか、こう言っていたのを覚えている。

 大人はつらい分、楽しい。

 

 何が楽しいものか。何が楽しいものか。学生時代の頃のほうが、よほど輝いていたではないか。

 成人して、社会人になって、恐らく周囲から見れば私も「大人」なんだろう。そして私もそれを、恐らく自覚している。こんなにつらいんだから。大人とは、つらいものなのだ。苦しいものなのだ。終わりのない螺旋階段に閉じ込められたようなものなのだ。

 創作に生きようとも。獏として生きようとも。労働に屈したとしても。結局、行き着く先は忙殺だ。もう二度と、何の意味もなく、漠然と、しかし豊穣に、ゆったりと自然を愉しむことなど無い。愉しむことなど無い。愉しむなど無いのだ。どのような鑑賞も、どのような感慨も、それはあくまで忙殺の対価でしか無い。自身を切り売りして得た資金で、これから私は温泉に入るのだ。そして温泉から戻れば、また忙殺の日々が待っている。学生の頃に味わっていた、温泉から戻って、その感覚を一ヶ月間振り返り続ける。そんな時間はもうない。温泉から現実に帰れば、また生計を立てる。その繰り返し。

 学生の輝きはもう二度と戻らない。無責任に饒舌な自然と語らう時間などもう無い。大人とは、つらいのだ。楽しいことなど何一つ無い。学生時代のほうが、何倍も、何十倍も楽しい。無責任だったのだから。無責任に清廉を保っていられたのだから。いや、むしろ学生時代のほうが豊かであったかもしれない。

 

  • 苦渋の対価たる侘しさ

 現に、私のいまの生活は、学生の頃よりも遥かに貧しく侘びしく見すぼらしい。もはや何をする気にもならない。どうせ旅に出ようとも、また忙殺に搭載される。それなら、もう最初から何もしないほうがいい。こんなこと、学生の私ならば思わなかった。当然である。学生時代の私は、自由だったから。理解ある親族に囲まれて、私は学生の本懐を堪能していた。それが崩れて仕舞えば、侘しさすら自明の理である。

 なぜだ。自由時間が削られているというのに、私はなぜ貧しくなっているのか。魂の穢れは蓄積する一方なのに、なぜ豊かにならないのか。なぜ私は貧相な顔つきになっていくのか。なぜ私の顔色は土色へと変化していくのか。

 こんなの、あんまりじゃないか。苦しみの対価に穢れを与えられる。時間を差し出して貧困を与えられる。なんで。なんでだよ。こんな結末、あんまりじゃないか。

 せめて金が得られるのであれば、まだ救いもあった。例えば、一年間耐え抜けば、もう二度と労働の顔を見ずに済む。それならば、まだ救いもあった。しかし現実はこうだ。

 哀れだ。私が哀れだ。こんなにも塗炭の中で耐え難きを耐えてきたというのに。こんなにも真綿で息を締められているような日々ですら、なんとか藻掻いてきたというのに。この結末を迎えた私が、哀れで哀れで、可哀想でならない。

 

 つまり大人とは、何がマシか。どれがマシなのか。どの忙殺が、より正気を保っていられるか。たったその程度の違いの選択肢から、死なないような生き方を選ぶ。ただそれだけの愚劣な生存本能に他ならない。悠然たる暇はもう二度と戻らない。

 これが苦しみだ。どう転んだとしても、また忙殺に舞い戻る。受難ですら無い。単なる練炭でしかない。練炭で、私は果たして、生きていけるのだろうか。