2022.04.20
だから労働は阿片と言ったのだ。
そうとも。労働は阿片そのものである。出勤して、デスクやら端末やら機械やら何やらに向き合う。ずっと、じっと、それに向き合って積み重なった灰を片付けていく。積もりに積もった火山灰を、よそへよそへと掻き分けて捨てていく。
あるいは同僚との話題に花を咲かせる。会議に忙殺される。とにかく、人とずっと話す。話さなければならない。逃れる時間など無く、ただ自身の思考を流出させていく。
こうして、労働は我々の時間を浪費させる。我々の心を浪費させる。我々はそれに勘付くこともない。だって忙しいのだから。人間は、忙しければ忙しいほど思考力を低下させて、その眼前のことに対処する体力を温存する。こうして、労働の最中、労働への疑義は失われる。あるいは何か成し遂げたことによる快楽すら伴うのかもしれない。
だから労働は阿片と言ったのだ。出勤して心を殺す。帰宅して、磨り減った心に嘆く。それでも、出勤せざるを得ない。そして心を殺す。帰宅して嘆く。この繰り返し。阿片だ。止めよう。止めよう。そう思っていても、やめられない。
そして阿片に依存すれば、いずれ心は壊される。そうして人間は人間であることを辞めてしまう。
だから労働は阿片と言ったのだ。これでは預言者ではないか。
どうにも心が壊れれば言の葉もまた壊れてしまうらしい。今日の草はまた酷い。まるで馬鈴薯のやう。
文学は肥沃な土地にしか生息できないのであった。あゝ。