2022.04.21
今日は私の人生に対峙する姿勢として、簡単なフローチャートを示したいと思う。
前提として、私は労働アレルギーである。労働に適応した人間ではない。労働に触れ続ければ、心が虚脱状態となってしまう。
既に三週間が経過した。その中で、心は徐々に軋み始めている。私の目測では、恐らく六ヶ月でなにか留め具が弾け飛ぶであろう。
どのようにしようとも、労働では生きられない。
では、どう生きるか。現状、私を見惚れさせるものがある。それは木々たちと文。あるいは、よろづの言の葉。私は、木々と、種と、葉だけを見つめて生きていたい。それが、やっと見つけた私の夢である。あるいは獏かもしれない。
しかし、夢は多く敗れるものである。あるいはそもそも夢に資する才能がないかもしれない。夢が叶えば何も言うことはないが、破棄すべき可能性も当然視野に入れなければならない。では、どうすれば良いか。
ここで原点に立ち返る。私は労働アレルギーである。そして、生きるのには金が必要であり、金を稼ぐには労働が必要である。つまり、労働アレルギーであることは、生きることを捨てることに繋がる。
夢が破れたとき、私はどうすればよいか。労働に回帰するのではない。無へと帰るのだ。
まとめよう。
獏として木々に生きるという夢。夢が叶ったならば、言うことはない。破れたならば、生きることをやめる。何故か。労働アレルギーだから。
ああ、よかった。ちゃんと私の中に軸として備わっていたのだ。
であれば、はやく夢を壊してしまおうではないか。臆病者では居られない。さっさと夢に立ち向かって、壊されてしまおう。人生とは、終わるために在るのだ。