2022.04.26
どうにもこうにも、夢がない。
夢がないのだ。
夢はないが、生贄としての資質ならある。
今日、手塚治虫の話をした。
単に、手塚治虫の漫画——確か『ジャングル大帝』であったか——を勧められて、「絵柄が好みでない」と断ったに過ぎない。あの絵柄は私の味覚に合わない。動物というのは無辜に愛さなければならない。どうにも手塚治虫の描く動物というのは人間らしい。だから苦手だ。私の舌を唸らせることもない。単に好みの問題だ。
そんなことはさておき、私は断って、ふと思った。確か手塚治虫は六十かそこらで亡くなった。
そして、そのことを嘆く石ノ森章太郎の漫画を思い出す。
石ノ森章太郎はその漫画で、確か
「不健康な生活を繰り返していたので亡くなってしまった」
と評価した。そして、
「私は十時間寝るようにしていた」
と自白した。
私はふと思った。
「十時間も寝て、漫画も描いていたら、きっと漫画以外で何も出来ないだろうに」
と。
そして兄の言葉を思い出す。
「いずれは仕事に生活を捧げなきゃならない時が来る」
と。
そして、思念の翼が私の頭にふわりと載った。
きっと人生とは、魂を何かに捧げなければならない。そういうふうに、出来ている。
手塚治虫が寿命と引き換えに作品を遺したように。
石ノ森章太郎が漫画で一日を溶かしたように。
サラリーマンがスキルアップという名目であらゆる研修に参加させられるように。
きっと、皆魂を捧げている。そうしなければならない。そうしなければ生きていけない。いずれ、そうしなければならない時が来る。人生とは、きっとそういうものなのだ。
理屈ではない。いずれ何かに、自身のすべてを喰わせる日が来る。いずれ、すべて喰われるときがくる。そう、思われて仕方がない。いや、きっとそうなのだ。このまま怠惰に、自我を保って生きていられる日は、もう永くない。
であれば、仕方ない。諦めた。魂を生贄にする運命ならば、どうせなら、自分の愛するものに捧げたい。どうせなら、崇拝するものに捧げたい。自身の魂を喰わせたい、そう思わせるような何かに。
少なくとも、労働でない何かに。