2022.04.27
やっとだ。やっと、私の息はここに戻ってきた。
いや、矛盾と言わないでほしい。私はいま、確かに死んでいる。確かに死んでしまっている。心も何もかも動かない。単に、仕事に出て、帰ってきて、寝る。肉体だけが何かに運ばれる。精神は死んだ。それは紛れもない事実なのだ。
それでも、私はやっと、やっとの思いだ。やっと、生と死の切り替えスイッチを発見した。心の首を締めながら、ある一瞬、ほんの少しだけ、緩めて解放する術を身につけつつあるのだ。例えばどのようなものか。このようなものだ。
労働の最中、風が吹く。初夏の風だ。ぬるぬるとした湿気の中に、涼しさが走る。ふと、夏の訪れを覚える。そして耳を傾ける。鶯の声が聴こえる。目を遣る。まだまだ緑は覚束ない。春と夏の混在。早とちりした雲たち。そう思う。こんな感じ。
大したこともないのだろうか。いいや。この一ヶ月間、私には何もかもがカラーフィルムを忘れてしまったかのように映っていた。風は風であり、音は音であり、色は色であり、雲は雲であり、犬は犬であった。すべてがすべて、独立した情報でしかなかった。心は本当に殺されていた。私は労働の傭兵でしか無かった。
しかしどうだろう。今の私には、例え労働の最中にあっても、世界が世界に見える。単なる情報ではない。世界の感情に触れている。これがどんなに素晴らしいことか。
無論、私は依然として死んでいる。労働によって制御されている以上、私の精神に生きる余地など無い。故に、これはあくまで死という土壌の上に私の心が生えているに過ぎない。Mac OSの上でWindowsが仮想環境を構築しているように、私の魂はあくまで死という前提の中で、生きていた頃の状況を再現しているに過ぎない。死んでいるという状況に変化など無い。
それでも、私はやはり、面白みも無く言えば、嬉しい。まだ、完全に息の根を止められているわけでもないらしい。少なくとも、生きていたあの頃を覚えている。それなら、きっと労働から逃れても大丈夫だろう。まだ肉体まで殺す必要は、きっと無い。
拙い種で恐縮だが、そう思えてきたのだった。
あまりに質の低い文章だ。労働とは、どうやら賃金の代償としてすべてを奪うらしい。