まどどブログ

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2022.04.28 労働について⑫ / 逃避行に関する宣言について

2022.04.28

 

 私は考えた。思惟した。思惟って仏教用語だろうに。というか本質について深く考えるという意味なので、ごく普通に「考える」という意味で用いるのはあまりに不適切ではなかろうか。難しい言葉を使おうとして、結局十分に操縦できていない様が伺える。言葉はじゃじゃ馬なのだ。正しく扱わなければ怪我をする。恥ずかしくないの?

 とにかく、思ったのだ。これもまた天啓かもしれない。私は恐らく、労働から脱してしまうだろう、と。

 考えてもみてほしい。就職して一ヶ月。楽しいことなど何一つとして無い。初任給とて、自分でもびっくりだ、一切心が沸き立たなかった。

「ああ、当然の対価だよね。こんな苦しい思いを続けてきたんだから。むしろ、こんなかきくらす日々を続けても、たったこれだけなのね」

 と、まるで酸素を得るかのように、いや、厳密に言えば夏の新宿で息を吸うように思えてしまったのだ。つまり、私の中における労働への憎悪は、私の想像している以上に深刻なものへと変化してしまった。いや、もはや憎悪ですら無いのかもしれない。白蟻を見つめるような、そんな気味悪さにすら思われる。

 この状況で、いったいどれほど耐えられようか。耐える手段としては、「やりがい」を発掘するか、「メリハリ」を徹底するか。不可能である。どちらも不可能。私には一切効果がない。

 前者については、そもそも労働を不快に思うのに、その中にやりがいを見出すことなど出来ない。蜘蛛の足を剥ぎ取り愛でよ、というのと同義である。

 後者については、「メリハリ」をつけたところで労働に戻るのであれば意味がない。もはや私の日々の基盤は労働なのだ。それで「メリハリ」を徹底して、例えば休日に旅行に出かけたとする。確かに旅行中は幸いそのものであろう。しかし、旅行が果てれば、直ぐに旅行へと回帰する。その落差たるや。想像に留めておきたい。絶望のあまり、もしかしたら肉体をも殺してしまうかもしれない。

 つまり、労働に私は耐えられない。いずれ、この鎖は破綻する。私の首を柔らかに締め上げる鎖は、そのまま息の根を、心の輝きを、まるごと止めてしまうだろう。行き着く先は、敢えて言おう。精神崩壊か自殺だ。

 であれば、どうすべきか。労働から逃れる他に道はない。私は結局、生きていたい。残念ながら、死は惜しい。死にたくはない。生きていたいのであれば、労働を切り捨てる他に無い。

 そして幸い、私には文字がある。残念ながら文字以外に何も持ち合わせていない私だが——誇張ではない。私には、人並みに出来ることがなにもない。何かに対して造形の深いわけでもないし、運動も悲惨なものだし、対人交流も最悪に等しい。頭も、あまり良くない。何かで褒められたことも殆どない。

 そんな、何も持ち合わせていない私だが、文字だけは人に評価されてきた。何度か褒められたし、あくまで学校という狭いコミュニティーではあるものの、上位に食い込んだことすらある。文字だけは、私の右に常にあった。どんなときでも、常に。

 このことを考えれば、たぶん。文字との逃避行、ということになるだろうか。

 無論、怖い。労働という安牌を捨てて文字などと言う実体のないものと生きる。私は極めて保守的な性格なのだ。それでいて、こんな荒野を歩けなど。冗談としての質も悪い。飢える可能性すら有る。鎖から逃れるために、安定を捨てて砂漠に突っ込むと。正気の沙汰とは言えない。

 が、残念ながら進まざるを得ないんだと思う。悔しいけれど、私はもう、決意を固めてしまった。何故か。

 

 まだ生きていたいから。

 

  • 余談

 ところで、逃避行の映画の題名を思い出せない。なんだったか。船に乗って逃げ回る、というような内容だった気がする。裸足の1500マイルでないしな。なんだっけか。