2022.05.06
休日とは斯くも幸いなるものか。
いい。なんと素晴らしい。余暇が饒舌に私に語りかけてくるようだ。「何もする必要がない」「貴方はただ、寝ているだけで価値がある」と優しく微笑んでくれるようだ。生きるために身も割かれる思いで労働に取り組む。それがなんと愚かしいことか。休日は、連休はその意味を私の中にしっかり種まいてくれる。
しかし、私は自覚しなければならない。当たり前が当たり前ではないことを。
- 否定される自然
学生の頃、休日とは単なる一つの日でしかなかった。当然だ。学生の頃、自分自身の時間というものはそこらじゅうに落ちていた。授業。真面目に聞く必要などどこにもなかった。自分の意向でサボることだって出来た。自分のしたいこと。自分の楽しいと思うこと。それに時間を割り振ることが出来た。欲しい情報だけ入手すればよかった。学生時代は、楽しいことだけ出来た。意志に時間を従属させられた。
せいぜい、アルバイトくらいか。意志に反する時間は。それでも、アルバイトは自身の余暇に直結するという意味で、比較的意義も見出しやすいものであった。無論、労働というものは受容すべきでない。が、少なくとも「これを我慢すれば楽しい旅行が待っている」と言い聞かせることは出来た。つまり、労働は持続しなかった。それに、いつでも辞められた。むしろ労働を我々は使役していた。
簡潔に言おうか。我々の意志は何よりも優先されていた。幸いなるかな。私はそういう家庭に生まれた。
そして夢は破れた。
五稜郭のように、新進気鋭の城はあっけなく労働というモダン・タイムスに屈した。
もはや私の意志は私に劣後する。この連休とて、与えられた偽の自由に他ならない。あと数日も経てば、また私は自由を失う。この気ままで、幸せで、豊かな日々は終わる。あと数日も経てば、労働にすべてを優先させる日々が戻ってくる。
学生時代の頃は知る由もなかった。自分の意志は何よりも尊いものではなかった。当たり前は、当たり前ではなかった。そのことを。
- 借り手たる労働
そして労働はきっと、私がまた私の魂から抜け出すことを期待していることだろう。そうはいかねえんだよ。雑魚が。
私は気づいた。私の人生は労働になど支配されていない。ただ、貸し与えているだけなのだ。週五日間、私の生活資金を得るために、労働に私の人生そのものを貸し与えているに過ぎない。いやむしろ、強制的に住まわせている。そして家賃を巻き上げているのだ。
私は家主なのだ。不要ともなれば、労働を追い出すことすら出来る。そのときは刻々と近づいている。労働に支配されているのでは決して無い。私はむしろ、労働を支配して、束縛している。
忘れるな。あくまで私の人生は私のもの。私の時間は私のものだ。他の誰のものでもない。他の誰にも渡さない。
労働を潰すそのときまで、私は美しく輝き続ける。そう、ここに誓おう。