2022.05.15
最近、あることに喜びを覚えるようになった。それは虫との対話である。
虫というものは幼子と同様に苦手だ。何故か。意思が読めないから。何がしたいのか、何を求めているのか、あるいはどのような先を歩みたいのか。それが何ら理解出来ない。理解できないものは恐ろしい。だから苦手なのである。未熟児と同様に。
ところが、稀に虫の心——心と呼ぶべきか、あるいは生物的反応と見るべきかは不明だが—–と通じ合うことがある。例えば私が歩いていると、進行方向に虫が居る。私は踏み潰してしまうのが申し訳ないのと突然の登場に跳ね上がって止まる。虫はそんな私に驚いて、前に飛んでいく。しかしそれでは意味がない。私は進めない。依然として虫が私の進路を邪魔しているのだから。私はちょっと進んで、また止まる。さて、どうしたものか。
そう考えていたときであった。なんと、虫が私の後方に飛び去ってくれたのだ。私を避けるように、私の周囲を、弧を描くように、また目線の合うようにではなくあくまで低く飛んで、私の後方に退いた。私に「どうぞ」と道を譲ったかの如く。
今思えば、きっとあの虫は賢い虫であったのだろう。バカの一つ覚えみたいに前面に進んで進路を塞ぎ続ける個体もあれば、顔面に直撃してくる虫もある。彼は——彼女かもしれないが——そうではなかった。少なくとも、私の考えを理解し、彼なりの結論を導き出したように思える。
こういうものに、私は喜びを覚えるようになった。以前はビビってばかりで、そんなことを感じる間もなかったから。心に余裕が出てきたのかもしれない。
矢張り労働の従属に気づいたことが大きい。労働とは私にとって小作人に他ならない。彼の生殺与奪は常に私が握っている。仮に肉体が朽ち果てようとも、私の精神は不滅だ。