まどどブログ

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2022.05.29 サイゼリヤについて

2022.05.29

 

 やっちまった。人生で初めての過ちを、犯してしまった。

 

 スマホの画面にザーメンぶちまけちまった。

 あーあ。何やってんだか。二十と何歳にもなって。

 

 サイゼリヤ。恐らく多くの者が名を耳にしたことくらいはある、有名ファミリーレストラン。イタリアンを安価で提供してくれるかのレストランは、多くの信者を生み出しているという。

 私もその一人であった。私もサイゼリヤをこよなく愛していた。冗談抜きで、週に一回行っては、毎度毎度ペペロンチーノのWサイズを頼んでいた。まだアーリオ・オーリオの無い時代から、私はサイゼリヤを信仰していた。ことあるごとに「サイゼリヤへ行こう」をスローガンとして唱え、友人たちを困惑させていた。それほど愛していた。

 過去形である。今はさほどサイゼリヤに惹かれない。どうにも、あれほどの熱狂を見いだせない。もはや。友人の「サイゼリヤ」という言葉を拒むことすらある。「ガストにしよう」と、思ってしまう。

何故か。味覚が変化したから? 舌が肥えたから? いいえ。私は恥ずかしいほどに学生時代と好みが変化していない。天ぷらとステーキとスイカが大好きな青年、中年を見据えつつある青年である。だから食べ放題で天ぷらばかり食べて腹を壊す。つまり、私自身はそれほどに変化していない。昔から好きなものなど何一つ変わっていないのだ。少なくとも、何かを好きでなくなる、というようなことはありえない。増えていることはあっても。

 では、何故? 言ってしまおう。「アイスのせシナモンフォッカチオ」が消え去ったから。

 

  • 「アイスのせシナモンフォッカチオ」という宝具

 失礼ながら、はっきり言ってサイゼリヤはちょっとばかり安いだけの単なるイタリアンレストランである。くだけた話をしよう。ぶっちゃけ、パスタもピザもドリアも他で食べられる。なんなら家で食べられる。今はそういう時代だ。イタリアンとの距離は、以前に比べて確実に縮まりつつある。

 それに——気づいてしまったが——サイゼリヤは特段割安、というわけでもない。ちゃんと満足の行くまで食べようと思うなら、実は他のファミレスと同程度の価格を払う必要がある。何故そうなってしまうのかはわからない。恐らく味と具材が希薄だからだと思う。とにかく、サイゼリヤは極端に「安価」というわけでもない。

 どこでも食べられる料理を、それなりの値段で提供するレストラン。言葉は悪いかもしれないが、サイゼリヤとはそういう類のものであったのだ。

 それでも私はサイゼリヤを信じていた。それは何故か。サイゼリヤには、他では絶対に食べられない、黄金のメニューがあったから。それが、「アイスのせシナモンフォッカチオ」である。

 そもそもアイスのせシナモンフォッカチオは美味である。不思議な満足感を、我々に提供してくれる。サイゼリヤの料理でこのインパクトは珍しい。

 かつ、どのイタリアンレストランでも出されているところを見たことがない。魔改造に過ぎて誰も手を出さないのか、それとも特許を取得しているのか。それは分からないが、とにかく目撃したことがない。つまり、サイゼリヤでしか食べられない。あからさまな独自性なのである。この料理は。

 正直、熱狂より醒めて後は、このメニューのために通っていたと言っても過言ではない。基本的に最後にこれを頼んでいた。というより、これを楽しみにしていた。「アイスのせシナモンフォッカチオ」を手に入れるため、あのシナモンとバニラとふんわり感と甘味と温かさと冷涼が口の中で弾ける、そんな経験を手に入れるために、私はサイゼリヤを信じていたのだ。

 しかし、である。消えた。メニューから消え去った。確か去年の九月頃であったか。消えた。「たのしい組み合わせ方」のようなコラムに、小さく記されているだけの存在となった。「アイスのせシナモンフォッカチオ」という料理名は、この世から失われた。

 そして、コラムすら消えた。完全に消え去った。「アイスのせシナモンフォッカチオ」を新参が手に取る日は、例え類似物であろうとも永遠に失われた。

 私はこれを見て、思った。「アイスのせシナモンフォッカチオ」はもう見捨てる。そういう、サイゼリヤの宣言なんだな。

 それ以来、私はサイゼリヤをやめた。

 

 ちなみに今はガストとジョナサンで揺らぎつつある。なんか第二次性徴の遅く来た男の子みたいでかわいいね。