2022.05.31
労働の疲労は最悪だ。運動後の、あの神々に祝福された爽快な痛みではない。悪魔の苦しみ。沼の中で藻掻いているような疲労。そういう類のものが私を襲う。
ああ、労働なんて無くなってしまえばいいのに。他の人間はどうでもいい。ただこの私が、これから生き永らえるために。
ところで私は今日、二つの絶望に直面した。
- 同一の人間たち
一つ。人間は私と同様に、何ら面白みのない要素であること。
私は期待していたのだ。というより、これまでの環境にあまりに恵まれていた。他者というのは無条件に私と異なるものを持っていて、必ず私にない視点を提供してくれる。その意味で、関係性を構築することは有意義である。そう、信じていたのだ。
現実はそうではなかった。そんな人間など、ほんの一握りであった。有象無象は私と何ら変わらない。私の思うことをそのまま思う。あまりに単純で、あまりに平凡で、あまりに退屈。つまらない。私と同じなのだ。私が何の愉快さをも持ち合わせていないのはこのブログから察することができるであろうが、他の人間も同様であった。
つまり、他者の存在など、多くの場合は不要なのである。私ですべて完結してしまう。むしろ有害ですらある。私を穢す者すら在るのだから。
- 夢は破れつつ
一つ。私は恐らく創作者として身を立てることはないであろうこと。
簡単なことだ。私は想像力に乏しいから。
どこかで「自分のことばかり考えているのは良くない、楽しいことを考えるべきだ」というツイートを見かけた。ああ確かに、じゃあ楽しいことを考えてみよう。自分のことから離れた、作品の世界について。
なんということか。何も思い浮かばない——のは嘘だろう。世界観であったり、登場人物であったり、そういうものは少なからず——少なくとも一定の集中力を確保すれば——脳裏に描かれるはずだ。たぶん、寝不足で頭が働いていないだけだ。そう信じたい。
それにしても、私の妄想が自分のことばかりであるのは問題だ。どうにも自分の近辺のこと——例えば恋愛や労働など——で妄想を繰り広げてしまう。それではダメだ。普遍的でない。この意味でも、私の想像力は乏しい。幼い頃から知識ばかり溜め込んでいたにも関わらず、それを活かせていない。
ああ、そうだ。だからこの絶望は正しい。私は想像力という観点で酷く劣る。このような者に、果たして創造主が務まろうか。そもそも、何も思い浮かばなければ、創作に手を出すことも出来ないのではないか?
つまり、私が創作で生計を成すのは厳しいと言わざるを得ない。信じたい。私は成功する、と。しかし、現実は異なっている。客観的情報は無情である。
私はこれまで、どれほどの作品を生み出してきたのか?
- 「私」とは何か?
以上から導くことのできる答えは何か?
それは、私が、単に人間嫌いの能無しであるということ。人間嫌いで、孤独を愛する。にも関わらず、孤独を維持できる社会活動には不向きである。つまり、徹底した社会不適合者なのである。私は。
ああ、俺の人生、こんなはずじゃなかったのに。もっとほんわかとした幸せが待っている。そう、信じていたのに。
悔しい。この言葉の他に、もう何も言えることはない。いずれ仕事も辞める。一旦は作家を目指すも、恐らく挫折する。そしてその後は何が待っている?
地獄だ。いま私の在籍する地獄よりも、遥かに退屈で苦悩にあふれる地獄。きっと、私はその中で悔いて死ぬ。
ああ、もういい。もういいよ。どうせこういう人生であるならば、つまらない一生を過ごす必要などない。何もかもめちゃくちゃになってしまえ。