2022.06.08
もう労働のことは書かない。そう見得を切った私であるが、どうにも幕は降りなかったようである。幕は引き裂いておいた。
許してくれ。労働に生活の大半を支配されてしまっては、どうしても目につくことは労働が大勢を占めるのである。
- 私は帰りたい
私は以前から、働く前よりずっと、「仕事をやめたい」と思ってきたし、公言してきた。しかしこの言葉は、どうにも軽く受け止められてきた。「そんなこと、誰でも思っているだろう」と。
このような人間に、私はさほど期待することもない。こういうことを言う人間の大半は、興に欠ける。相手を自身と同質な存在としか思えない。その程度の知恵しか持ち合わせていないのだから。
思考してみよ。労働があまりに苦痛。たったそれだけの理由で枕を濡らす人間。いったいこの世にどれほど居るというのか? 私にとっての「労働」とは、拷問に等しい。そして「退職」とは、まさしく私にとってパンドラの箱なのだ。
いいや、世人を糾弾するべきではない。この場合、私に非がある。「仕事をやめたい」などと、普遍的に用いられる表現を拝借してしまったのだから。仮に自身の意を正確に伝達することを望むのであれば、適切な表現を用いなければならない。その手段が無いのであれば、開拓しなければならない。
ここで、私は「仕事やめたい」をこう置き換えよう。
私は在るべき場所に帰りたい。世界の中へと帰してくれ。
- 世界に滲む自己
私は元来、世界であった。昨日、雄大な雲に諭された。君は私と同質であったはずだ、と。
誇張でもなければ思春期の刺々しい思想の末路でもない。これは事実であった。私は明らかに、世界と同化していた。自己と世界は分離されていなかった。私は自己を求めつつ、最終地点で、世界の一要素としての存在を受け入れていた。
例? 例など溢れんばかりである。例えば私は魂の存在を当然のように受け入れている。疑う余地の無いものとして、神仏や霊の存在を受け入れる。厳密に言えば、存在する可能性は無いものの存在していると考えることが好ましいものとして敬愛している。死について、論理的には終焉であり無への回帰であるものの、思想的には再生への道だと信じている。私たる存在もまた大きな輪廻の一つだと、冥土を否定しながらも、心の奥底で信じている。
さらに、私は旅を愛する。旅で最も楽しみとしているものは、風土である。五感によって知覚される、その土地の特性。特に匂い。これを、何をするわけでもなく、ただぼんやりと感じ取っている時間が何よりも幸いだ。木製のプラット・フォームで、何十分も開けた大地を、私も含めて感じ取る。その時間が好きだ。いつの間にか、土地が私を包み込んでいるような気分となるから。
もっと言おうか。私は虫を殺せない。死に様が気持ち悪いとか、潰したときの姿があまりにおぞましいとか。それは第一線の理由である。その後方で構えているのは、きっと虫への尊重である。意思疎通を図れずとも、できれば殺したくはない。生命として、尊重しているから。
もういいだろう。私は世界であった。少なくとも、世界の一員として自身を認識していた。魂や輪廻にすがっているし、土地に包まれるし、虫に同質の敬意を払う。私がこのように言語を徴用する、そのずっと前から、私は自己を世界と同化させていた。
- 労働という断絶
そして労働は私を世界と切り離した。私という部位を世界の中から切断した。私は私という肉体の奥底に閉じ込められた。世界と私とは異質な存在と成り果てた。
陶酔でも狂乱でもない。論理的な説明を加えれば、このようである。まず労働は睡眠不足と疲労蓄積という状況を私の中に作り出す。この二つの悪魔によって、私の感受性は大幅に低下する。感情の発出すら鈍化する。絶えず睡眠欲が起こり、暇あらば眠るような状況となる。このようになれば、風景に何か思う機会も少なくなっていく。こうして私は世界と分離されていく。このようなメカニズムである。
これを私の視点から述べれば、私は世界ではなくなってしまったと言える。いや、私が世界から引き離されてしまったのだ。労働は私を世界の外へと連れ出した。首輪をかけて、私を切り落とした。かつて奴隷が、母なるアフリカから切断されたように。
- 帰せ、あるべき場所へ
つまり私はいま、異郷の民である。それも、望まぬ形で。生計、即ち生命を脅かされ、奴隷として私は世界から遠ざけられた。世界を見えなくされた。そうして私は孤独となった。
孤独となった者が何を思うか。約束の地を遠ざけられた者が何を思うか。もはや説明するまでもなかろう。イスラエルの民が、私を代弁してくれている。
- 約束の地へ
楽観的に捉えよう。雲が教えてくれた。ここまで思考が整理されれば、自らのディスティネイションは、獣道程度の標も通っていよう。
帰るのだ。世界へ。かつて私の存在していた場所へ。
では、世界と溶け合うものはなんだろう? 世界と同化するには、何が望ましいか?
次に考えるべきは、このことである。