2022.06.11
大地は誰を愛しているか?
言うまでもなく、それはバスである。
- 土地を知るならバスに乗れ
例えば貴方が引っ越したとする。そして、その土地の特性やその土地の魅力、そして「住んでいる」という実感を速やかに得たいとする。ここは仮住まいなどではなく、少なくとも現状において、最終地点である。そう自覚したい。そう思い込みたい。そのためには、どうすればいい?
貴方はバスに乗りなさい。バスというものは恐ろしい。道のあるところであれば、どこへでも連れて行ってしまう。窓は大きく、透明な箱に入って運ばれているかのような錯覚を与える。そして動きも比較的緩慢である。つまり、風景を他の交通機関に比べて最も効率的に楽しめる。
さらに、バスは風すら受け入れる。風は土地を良く表す。海の街であれば海の匂いがするし、山の街であれば山の匂いがする。工業地帯であれば工場の淀んだ匂いが空気を支配するし、都会であれば人間の匂いで満たされる。バスはそれすら受け入れる。つまり、バスは土地そのものを運んですら居るのである。
なお、客層も土地の一部である。これ以上は述べない。
- 点と線と鉄道と
鉄道は土地を知るのに向かない。何故か。過剰に優秀だから。
鉄道はまさしく点と線で、ある地点とある地点の間を移動することに関して、右に出るものは居ない。が、その最中の趣を殆ど考慮していない。例えば、貴方がとある木に魅せられたとしよう。海でも構わない。あるいは朽ちた自動車でも。鉄道はものの数秒でこれらを視界から遠ざける。
地方の汽車であれば事情も異なるが、そういうものは多くが廃れる運命にある。いずれ、鉄道は例外なく「点と線」の交通機関となるだろう。
- 自家用車の罠
「バスであれば自家用車はどうか」と問うやもしれぬ。確かに、交通機関としては殆ど同種である。違いとすれば、自由の差であろうか。バスは路線が定まっている。自家用車は自由で進路を決定できる。つまり、自家用車のほうが自由である。むしろ、心ゆくままに探検できる自家用車を推薦する声も挙がるであろう。
私はこう考える。運転手を確保している場合は、自家用車も好ましい。しかしそうでない場合、つまり自ら運転しなければならないとき、土地に振れるのであればバスが望ましい。
何故か。あまり深い事情はない。見知らぬ土地で運転しているとき、何か楽しむ余裕があろうか?
なお、飛行機と新幹線は論外である。ブルジョワジーに土地を知る権利など無い。
今日の記事は凄惨という二文字でも着飾っているのであろうか。