まどどブログ

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労働について⑳ / 脳の「痺れ」について

2022.06.13

 

 只今の時刻、午前三時三十分。時間すら忘れてしまっていたようだ。

 今の私が考えていることは何か。明日、仕事行かなくとも良いか? それだけだ。

 ただし、これは私にとっては極めて致命的というか、不可逆的なものである。もはや生理的な拒絶に近い。以前味わったものと似たような感覚を抱いている。身体が重くなって、涙が止まらなくなって、そのまま動けなくなってしまう、その前触れなのだ。

 労働への拒絶はもはや理性の領域を離れている。理性の中では、もう決定されている。そして段階は肉体へと移行した。矢張り、退職届と遺書の力は大きいものだったのだ。

 

 労働のことばかりで恐縮だが、それでも遺しておきたい。労働に身を置くとは、どのようなものか。

 朝起床して、職場へと運ばれていく。この過程で、まだ自我は比較的機能している。無論、睡魔に覆われつつも、例えば今日は涼しいな、であるとか、今日の木は青いな、であるとか、あるいは雲の形であるとか、そのように広く世界を見通す力が残っている。より現実に即して言えば、脳にはまだ、視界を処理して娯楽へと昇華させる余力が残っている。

 しかし、労働によって徐々に脳は痺れていく。痺れ、と表現するのが最も相応しいと考える。だんだんと、視界が狭まっていく。あるいは感性が矮小なものへと変化する。そもそも自らの周囲にのみ注意を払うこととなるので、必然的に視界は小さくなっていくし、例えば窓に目をやって景色を眼球に刺したとして、それは脳において価値のある受け止め方をされない。ただ、情報として、いや情報ですらなく一時的に認知される図形として、何の感傷も何の感想もなく素通りされる。最たる例は視覚であるが、他のものも同様に。個人的には味覚すら鈍化する。

 さらに感情も退化する。喜怒哀楽。これらは徐々に平坦なものと化していく。人間は退屈ながら労力を要するものに面したとき、どうにもストレスをカットする方向に動くようで、その最たる手法が感情の喪失であるらしい。何も思わなくなる。積み重なっていくタスクを、どのように処理すべきか。向き合っている事象の、根本的な原因は何か。そういった、極度に現実らしい問題を前に、感情は消失する。いいや、吸い取られているのだ。タスクの方々に。そうして、自我という感情は切り離される。

 これが「痺れ」である。五感の鈍化。感情の消失。こうして、人間は労働者へと変貌を遂げる。人間は労働に際して、脳の痺れを体験する。脳が痺れていく。多くの場合において、無意識に。

 そしてふとした瞬間に、我に返るのだ。脳が痺れていたことを認知して、「俺はいったい何をしているんだろう」などと自問する。体力が旺盛であるならば、休憩時間を用いて、五感と感情の回復に取り掛かるだろう。ランチで美味しいものを食べるであるとか、遠い景色をぼんやりと眺めるであるとか。

 しかし、五感も感情も繊細なもので、直ぐに回復するような代物ではない。少なくとも、一時間かそこらの休憩時間では。通常の感性より遥かに霞んだ景色を、遥かに鈍った味覚を、我々は自覚することとなる。

 そしてまた、労働は脳を痺れさせる。自我は取り除かれる。

 

 だから私は耐えられないのだ。私はずっと、感性のままに生きていたいから。脳が痺れて、世界と、何より自我と切り離されて、一生を終える。そんな悪夢は必要ない。

 取り除かれるべきは私ではない。死に絶えるまで続く、悪夢である。