2022.06.20
あれほど騒ぎ立てて恐縮だが、’Yet To Come’に関する記事は書かないこととした。
稀に、言語化を惜しまれるような心持ちとなることがある。言語化して仕舞えば、この漂う雲模様が晴れてしまうような気がして。あまりに明瞭になって、そこに非合理の、動物的な本能の住む場所が失われてしまうように思われるから。
これは、そういう類のものであった。あまりにプライベートなものであったのだ。
- 祈りの否定
私は思う。
なぜ、健全な祈りを妨げられなければならないのか。
なぜ、無害で穏やかな祈りは虐げられ、卑劣で腐った祈りは讃えられるのか。
もっと寝たい。私の現状で抱く最大の祈りである。もっと寝たい。私にとって適正な睡眠時間を、当然の権利として確保したい。一日十二時間、最適な睡眠を実現したい。
たったこれだけ。誰も傷付けない。あくどい手法によって金を巻き上げることもない。無論戦争も引き起こされない。戦争はおろか、闘争すら起こり得ない。この祈りは、どこまでも個人の中で完結しているものなのだから。
なぜ、この祈りは捨てられなければならないのだろうか。優しい祈りは、なぜ否定されなければならないのか。誰の迷惑にもならないのに。幸せはたったこれだけで多く満たされるのに。ただ、穏やかな祈りなのに。
たった一つ。もっと寝たい。その幸せすら奪われる。こんな世界に、果たして生きる価値は有るのだろうか?