まどどブログ

普通の二十代前半男性が、夢を見るか、破滅するか。そんな人生ドキドキギャンブルの行く末を提供しています。

2022.06.21 我儘と幸いについて

2022.06.21

 

 労働が私を気絶させようとも、私が止まることなど決して無い。

 このように翌朝であろうとも、私は私の為すべきことを為す。

 

我儘であるところの祈り

 現状における私の祈りとは何か?

 それは二つ。「働きたくない」「もっと寝ていたい」。

 これは人は我儘と云うらしい。駄々を捏ねる子供のようであるとか、成長の遅滞した者のようであるとか。

 確かに、我儘であるとは我ながら思う。私の欲求を書き連ねているに過ぎない。純粋ですらある。他者を誇張することもなく、ただ私の中における祈りについて語っているのだから。

 ここで問題とされるのは、我儘が「恥ずべきこと」として認知されることにある。我儘は子供のものであって、大人がしてはならない。大人が我儘を連ねるのは大人の威厳に満ちた態度から離れる。我儘は我慢すべきである、と。

 しかし、それは幸いだろうか。

 

幸いと我儘

 言うまでもなく人間にとって最大の幸いとは、自らの意思によって何もかも律することにある。人間は独立した存在であるし、自尊心を持つので、程度の差こそあれ、独立自尊の精神に近しいものほど人間の欲求は満たされ、幸福への近道となる。

 つまり、独立した自らの意思に従順であること、というより私そのものを尊重して行動することは理性と自尊心の要求を満たすこととなり、幸いへと繋がる。

 立ち返って、我儘とは独立した意思そのものである。その意味で、我儘に忠実であることは、本来幸いであり、尊ばれるべき事柄ですらある。主題に沿えば、我儘から逃れるのは幸いではない。

 

我儘と社会

 しかし人間は我儘を封じ込める。何故か。それは社会の要請を自らのものと思い違えているから。我儘が封じられるのは、個々が独立自尊の精神で行動した場合、社会の崩壊を招くためである。故に社会は我儘を禁じ、醜悪なものと見做す。それを教育段階から説かれてきた大衆も、自然我儘を悪と捉える。それも「主観的な」認識によって。

 このようにして大衆は我儘を、独立した自己の声を押し潰す。これを否定するつもりはない。それもまた、人生である。

 が、少なくとも私は幸いを愛するし、自らを愛する。我儘を抑えることなどしないし、我儘に沿って生きる。無論合理的説明は要されるが、それもあくまで私のため。合理的説明すら我儘として私は従う。

 

我儘と甘受

 さらに、そもそも説法を試みる者に私の我儘を糾弾する資格など、無い。以下は以前も述べたが、改めて。

 「みな働きたくないと思っている」と言う者が居る。「みなもっと寝たいのを我慢している」と。確かに、みな働きたくないであろう。ご苦労なことである。労働によって、善良で無害な民が何億人も消費されている。憎むべきことである。

 だが、残念ながら彼らに同情することは無い。皆働いている。文句を垂れつつ働いている。職を辞することも可能であるというのに、皆働いている。働きたくないと思っていて、実際に働いていない者など、少なくとも彼らの説法の中では一人として登場しない。誰も彼も、皆働いている。それも、何年も。睡眠に関しても同様。

 つまり、みな甘んじて受け入れている。我儘を殺して、その境遇を抱擁している。言うなれば、愛しているのだ。働いている、その事実を。

 私はどうか。私は私に対する抵抗勢力を敵と見做している。労働も睡魔も、殺戮すべきものであると考え、その信念に基づいて行動している。抱擁を交わしたことなど決してない。愛しているはずもない。

 この意味で、彼らと私とはそもそも立つべき大地が異なっている。彼らが丸の内のビルヂングに立っているとすれば、私は遠く離れた、例えば石狩の、田畑の中に在る。石狩の者に対して「おうい、ここまで上がってこい」と東京のサラリーマンが説法することほど、無意味なことは無い。

 いいや。それすらも分からないので、私に対して説法をするのであろう。

否定はしない。否定は他者への干渉であるから。ただ、善良な限りである。

 

 そういえば、甘受は元々享受と似たような意味であったらしい。日本語は変化する。