まどどブログ

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2022.06.24 パワハラと自殺と世界について

2022.06.24

 

 哀れむべきかな。抑圧する者の快楽は、私によって満たされない。

 

  • 大人にとっての「世界」とは?

 そもそも私に限らず、抑圧は多くの成人にとって何ら効果を持たないはずだ。

 未成年であれば、特定の区画——建物を軸として考えればこのような表現はまさしく適切と言える——を世界のすべてと認識してしまうことであろう。例えば小学校。例えば中学校。例えば高校。例えば家。このような狭い土地を、自らを支配する世界そのものと誤認してしまう。このような状況であれば、抑圧に耐えかねて死を選ぶことも、文字通り自然の摂理と考えることが出来る。世界そのものに否定されているのだから。

 しかし、成人となった者にとって、世界はその狭い区画を意味しない。例えば世界は家でもないし、会社でもないし、保護者会でもない。世界とは、地球であり、宇宙であり、文字であり、色であり、音であり、そして知恵である。世界は手に負えず、目で追えないほど広い。あまりに広大で、しかも広がりは留まることを知らない。

 

 このようであるにも関わらず、特定の区画内で抑圧を受けて死を選ぶのは、言葉を選ばずに言おう、バカである。誤った解釈は避けたい。このバカというのは、善い意味でもあり、悪い意味でもある。

 まず善い意味では、極めて強い責任感。

 自らの位置する区画の中で、為すべきこと、課されていることを強く自覚し、それを自らの下で果たさんと、自身を従えて奮闘している。人間としてこれほど善い者は無い。誰もが責任を放棄し、誰もが身勝手のみを要求するこの世の中。責任を逃れた者こそ勝者のように扱われ、莫大な資本に恵まれるこの世の中。その中にあって、武士たらんと気高く振る舞っている。これがいったいどれほど尊いことか。この意味で、バカなのだ。バカ真面目。バカ正直。「現代の水準を遥かに凌駕する程度に」真面目なのである。

 では、悪い意味。これは広く使われている通り、無能力を表す。具体的には、自らの状況を正確に判断できないという意味での無能力を示している。

 確かに善いことは高められるものである。少なくとも、神々や自然はそれを讃えることであろう。しかし、その責任感そのものに支配されるようでは、気高い精神は速やかに愚かしい機械のプログラムへと変貌を遂げる。あくまでその強く気高い責任感はその狭い土地の中でのみ有効である。それを忘れて、責任感そのものが自らの存在理由であり、責任感の発揮される狭い区画が世界そのものであると判断するようになる。これは平たく言えば、視野狭窄に過ぎない。責任感に操られ、見えなくされている。

 それに、そもそもこの場合、責任感が機能しているとすら言い難い。仮に自らの存在が危機に陥った場合、己にとって為すべきことは何か。狭い土地からの逃避である。世界は広いのだから、仮に現在位置で自己が危ぶまれたとしても、他の場所に移ってしまえば自己は安定する可能性も存在する。むしろ、それが正常である。故に、自己に対してすら強く気高く責任を有しているのであれば、真っ先に逃避を考えるべきである。しかしそれすらしない。視野狭窄の中で、死を選ぶ。これは、果たして「愚か」という言葉の他によって修飾すべきものだろうか。

 

  • 成人諸君に告ぐ

 成人諸君に言いたい。貴方が仮に苛烈な抑圧——パワハラや嫌がらせ——を受けていたとして、それは単に、その限られた範囲の中で有効である。抑圧の射程距離はせいぜい数十メートル、最も広大なもので数キロメートルであり、その範囲から脱した途端、抑圧は攻撃力を一切失う。抑圧は一見強固で揺るぎないもののように見えて、その実、小人の威嚇でしか無いのだ。

 逃げよ。何もかも捨てて、逃避せよ。貴方のみたまは、抑圧によって擦り潰されてはならない。貴方は貴方として美しい。少なくとも、抑圧に苦しむような人間は、磨かれて宝石の輝きを放っている。不適切な研磨を受けてはならない。宝石に一線たりとも傷を付けてはならない。

 今すぐ逃げよ。逃げた先の破滅が恐ろしくとも、何も考えず逃げよ。

 何が待ち構えているかは、逃げてみなければわからないのだから。

 

 まあ、自戒である。私は私に関することにしか、興味を見出だせない。

 ちなみに、本来は戦って敵将の首を狩るべきであると思うが、抑圧に悩む者にとっては至難の業であることが予想される。自己を保全できる状況が整っているのであればいざ知らず、そうでなければ、逃避が最も安全な手段である。