まどどブログ

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2022.06.25 「おもいやり」について

2022.06.25

 

 昨日は演説を行ったが、一点、補足しておきたい。

 仮に逃避の果てに破滅が待っていたとして、それは本人の責任である。『この世の不利益はすべて当人の能力不足』とは、漫画の台詞ながら核心を突いていると思う。

 

  • 「察する」という史上最大の関所

 基本的に、私は他者の欲求を察することが出来ない。これは何も逆張り精神の成れの果てであるとか、愛から離れたことによる憎悪であるとか、そのようなものではない。生得的なものか後天的なものかはともかく、他者の願いを事前に察知することが殆ど出来ない。例えば、「言うことを聞いてほしい」と思っている人間が居たとして、それを言葉に表さない限り私は決して——正確には私の意志と合致しなかった場合——そのように行動しない。簡潔に言えば、「言われなければ分からない」というものである。

 多かれ少なかれこのような思いを持ったことは皆あると思う。しかし私のそれは常軌を逸している。私は基本的に(少なくとも私の中において)論理的な思考の下で動いている。他者の論理は残念ながらそこに介在しない。いや、介在するわけがないだろう。私は私であって、他の誰でもないのだから。そして、他者の論理を挟まぬまま行動に移す。これが私の行動原理のすべてである。なお、改善の余地はない。だって分からないんだもの。

 これまでは幸いなことに、このことを特に気に留めない、いわば「言われなければ分からない」人間が関係の多数を占めていたので、何ら問題も生じていなかった。が、最近はどうにも状況が変化しているらしい。率直に申し上げて、他者の論理を組み込まなければならない環境など生まれてはじめてなので、純粋に興味深く思っている。

 明示する。「相手を察して」だとか、「相手の求めることを最優先で考えて」だとか、そういう事態は——恋愛という尊い場面を除き——あくまで質の悪い創作の一場面に限ると思っていた。特に、企業活動については。企業活動とは利益の最大化に他ならず、合理性の他はすべて排除されると考えていたためである。

 現実で在るどころか、世界の基盤であるなどとは、夢にも思っていなかったのだった。

 

  • 「察する」というスキル

 では、そもそも何故私は他者の論理を導入できないのか?

 生得的なものではないように思える。私はそもそも感情の挙動に敏感である。なぜ人が怒るのかは理解できずとも、人が怒っているということは速やかに認識できる。あるいは、なぜ人が悲しんでいるかは理解できずとも、人が悲しんでいるとは知る。このように、感情の内面は探索しかねるものの、感情そのものを発見する面では優れている。そして、どちらも同じ「感情」である以上、前者も習得することは容易であったはずだ。しかし私にそれは出来なかった。

 では、何故か。恐らく、原因は養育環境にある。私の親も私の家族も、みな「言われなければ分からない」人間。友人も基本的には皆そのような種類。学校についても、もはやそれが暗黙の校訓。このような状況下で、「言われなくとも分かって欲しい」というスキルを獲得することは困難である。むしろ意図して学習すべき事案でもあろう。学校において「相手の気持ちを察するには」という講座を開くべき事態である。

 つまり、私が他者の思いを汲み取れないのは、私の感情が希薄であるということを意味せず、単に成長過程で習得することが無かったということでしかない。

 

 そして習得する気はこれからもない。このスキルが無くとも生きていけることは私の家族が立証している。敢えて自身を曲げる意味はない。