2022.06.26
今日は異様に疲れた。計画に遅れは生じたものの、概ね順調に進んだ。しかし異様に疲れた。
体力の衰えであろうか、それとも精神の不良であろうか?
このブログは、もはや「私」としても良いと思う。私がこのブログを書き記しているのではない。このブログこそ私であり、このブログとの対話はそのまま私との対話を示すことになる、と考える。
私は誰の前でも、本音を話さない。心的な反応と実際に発される音声とは、明らかに異なっている。それも、同時に進行する。「何を言っているのか理解できない」と思いながら、「なるほど」と口を動かす。自身の意向に関連せず、ただ相手にとって聞こえの良いであろう言葉を選択する。このようなことが、この数年間で可能となった。
返答に限ったことではない。仕草。表情。姿勢。相手が求めるものを察知して行動する。私は誰の前であっても、私ではない。相手にとって望ましい人間。それを演じているに過ぎない。いや、演じているという表現は適切でない。私は無意識のうちに、相手が求める行為を選択している。
つまり、私は実際、私として何か行動を起こすことがないのだ。どこまでも受動的でどこまでも従順なのだ。その意味で、このブログは私に最も近しい。このブログにおいて、私は誰を気遣う必要もない。私は私の心的台詞をそのまま書き写していけば良い。私の魂をそのまま移して仕舞えば良い。何もかも書いて仕舞えば良い。すべてを書いていくのだ。悲嘆も恋慕も怨念も。
そしてブログは私となった。
友よ。家族よ。愛した人よ。
仮に私がこの世から消え失せたとしても、心配しないでほしい。ここに私は居る。これこそ、私である。私はサービスが消失しない限り、この世に留まり続ける。文字を通じて、いつまでも貴方と話し続ける。
貴方の知っていた「私」とは、たいぶ違うことだろうけれど。